邂逅(3)




 ハルナキ滝の轟音が、すぐ後ろで響いていた。

 雫は両腕を後ろ手に縛り上げられたまま、腰から下を滝壺に浸して立っていた。濡れた髪が貼り付く頬を、滝風が水しぶきを乗せて容赦なく打ちつけていく。冷たい雪解け水は雫の体温を奪っていき、血の気が引いて青白くなった全身はがたがたと震えていた。

 足の感覚は、最早ない。きつく縛りつけられた足首とひざの痛みを薄く鈍く感じるのみだ。


「よっこらせ……っと」


 滝壺の傍にある大岩に寝ころんでいた桜介がふと体を起こし、竹筒に差し込み立てた線香に火を付ける。それが三本目であることを知っていた雫は、籐馬が村に向かってから四半刻が過ぎたことを悟った。


「いいか籐馬、猶予は半刻だ。俺はここで雫と待ってるから、それまでに食いもんを準備してから一人で戻って来い」

「ま、待て。そういうことなら、雫を村に行かせて俺を人質に」

「こういう時は女を人質にするって相場は決まってんだよ。とにかく、少しでも遅れたら雫は俺がもらって行く。……言ってる意味、分かるよな?」


 耳の奥で響く拍動の中に、籐馬と桜介の二人が交わしていたやり取りが蘇る。雫は強くまぶたを閉じ、余計な思考を追い出すべく震える息をゆっくり吐き出した。

 

「寒いか?」


 声を掛けられ顔を上げると、いつの間にか目の前に桜介が立っていた。

 雫は桜介の問い掛けに答えることはせず、一瞬強く睨みつけるだけに留めた。


「おーおー、まだ気持ちは折れてねえようだな」

「……うるさい。あっちに、行って」


 掠れた声でどうにか反抗して見せたが、何しろ口も舌も巧く動かない。ろれつの回っていない雫の言葉に、桜介は嘲笑を浮かべながら顔を覗き込んだ。


「何でもしますから許してー、って言ってみろ。そしたらここから出してやらんこともねえぞ?」

「うるさい、って、言ってるでしょ」

「……可愛げのねえ女ですこと」


 桜介は呆れたように言い、雫を肩に担ぐように抱えて水から上がった。そして滝壺から続くせせらぎの傍らに乱暴に下ろすと、縛っていた縄を短刀で乱雑に切断していく。

 雫の手足を自由にしたところで、桜介は先ほど取り上げた刀を放って寄越した。


「……何の、つもり?」


 縛られた跡のついた手首をさすりながら、桜介を見上げる。雫の前を行ったり来たりしながら短刀をくるくると回して弄んでいた桜介だが、やがてその場で何度か軽く飛び上がってから、構えの姿勢を取った。


「かかって来いよ。やられっ放しじゃ鬱憤も溜まるだろ」

「……そんな小さな刀で相手をするって言うの?」

「手枷みてえなもんだ。俺とお前の実力には差があり過ぎるからな」


 有難く思えよ、などと言いながら、視線を雫の刀に向けて手に取るように促す。雫は震える手で刀を拾い上げ、ふらつきながらもどうにか立ち上がった。


「籐馬が戻るまでに一太刀でも浴びせられたら、このまま大人しく帰ってやるよ」

「……二度とここに近付かないとも、約束して」

「ああ、構わねえよ」


 雫の提言をあっさりと了承したのは、自分が負けることはないという確固たる自信があるからだろう。寛いだ表情も見せており、本気でやり合うつもりはないようにも見える。

 雫の方も、桜介を組み伏すことができるとは思っていなかった。籐馬と二人がかりでも敵わなかった上に、今は体調も万全の状態ではない。

 しかし、切っ先だけでも当てればこちらの勝ちで、深く切り込んで殺傷する必要はないのであれば、やりようは幾らでもある。

 雫は、一つ深い呼吸をした。

 右手で柄の上部、鍔元の下を握り、柄頭に左の掌を添える。

 その指をそっと折り込んで柄を柔らかく握りながら、両肘を脇腹の高さまで下ろし、切先を相手の眼の方に真っ直ぐ向けた。


「いい構えだな。綺麗だ」

 

 口の端に笑みを乗せて賞賛する桜介は、整然とした体勢を見せる雫とは打って変わって、短刀を握る手を右へ左へと移動させながら、その場でせわしなく体を揺らしている。

 雫は、ちらりと視線を桜介の足元に向けた。


「その手は食わねえよ。さっきはそれに引っ掛かって、隙を突かれたからなァ」


 自嘲気味に言いながら、突然ぴたりと動きを止める。


「そっちから来ねえなら、俺から行くぞ」


 言うや否や、短刀を右肩から振りかぶって斬りかかる桜介。雫は体を左にずらしながら、額の前で刀身を横たえそれを受けた。

 が、そのまま力で押し切られてしまう。振り抜かれた桜介の短刀は、今度は雫の左下側から脇腹目掛けて襲いかかってきた。

 この体勢からでは刀で攻撃を受けることはできない、と咄嗟に判断した雫は、防御は諦めてそのまま桜介に向かって刀を振り下ろした。雫の体が左に流れている分、桜介の方が若干遅れを取っており、このままいけば桜介の斬撃が届くより先に斬り込める。

 それに気付かないはずもなく、桜介は、ちっ、と舌打ちすると、左足の指に力を込めて踏ん張りながら刀身の軌道を変えた。

 ギン、という高い金属音が響く。

 上から斬りかかった雫の刀が捉えたのは桜介ではなく、短刀のだった。


「構えだけじゃなく動きもいいじゃねえか。筋がいいんだな、お前」

「……いいのは筋じゃなくて、教えの方よ」

「師に恵まれたか。一ぺん手合わせ願いたいもんだ」


 突然、桜介が刀身の角度を変える。そのせいで競り合っていた刃が滑り落ち、雫の体勢がやや崩れた。

 桜介は左足を蹴りつけて体を傾け、その勢いのまま刀身を一旦上まで振り上げたかと思えば、次の瞬間にはもう、雫の額に切先があてがわれていた。


「どうするよ? もう一回やるか?」

「あ……当たり前でしょ!」

「じゃ、お願いしますって言え」

「……!」


 得意げに笑いながら見下ろす桜介を、雫は唇を噛みしめて睨み返す。へりくだって下手に出るのは絶対に拒否したかったが、このまま黙っていればどんな命令を付け加えられるか分かったものではないと思い、仕方なしに口を開いた。


「ああ? 聞こえねえよ」


 この距離なら聞こえたはず、とばかりに再び目つきを鋭くして見上げるが、桜介がそんな無言の抗議を受けて引くはずもない。


「……お願い、しま、す」

「ンだよその覇気のねえ返事は。あんまり舐めた態度取ってると、一生残る傷付けるぞ」


 刀を下ろしながらそう言うと、桜介は間合いを取る為に雫に背を向けた。

 と同時に雫は大きく足を踏み出し、右下から斜め上へと刀を振り上げた。


「……後ろから挨拶なしに襲い掛かるたァ、いい根性してんじゃねえか」


 チラリとこちらを振り返りながら、低い声で桜介が呟く。

 雫の刀は、逆手に持ち替えられた桜介の短刀によって、いとも簡単に止められていた。


「私は武士ではないの。卑怯だと言われても、隙があればそこを付くわ」


 キリキリと不快な音を立てながら、二人の刃が火花を散らす。

 三本目の線香は、既に半分が燃え尽きていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空白のセト よつま つき子 @yotsuma_H

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ