邂逅(2)




 しずく籐馬とうまは村をぐるりと囲む防塁の外、その西側の警備を任されていた。

 聖域は本来、長の許可がなければ出入りしてはいけないことになっている。それは法律や協定などといった文書に明記されているような代物ではなく、ただの遠い昔からの習わし、暗黙の了解でしかない。守らないところで特に罰せられることはないのだが、”神の息吹”が宿るとされている場所の掟を進んで破ろうとする不届き者は滅多にいなかった。そもそも、聖域の周辺は距離や方向の感覚も失う程の深い森に囲まれており、また独自の進化を歩む頑強な獣が巣食っている為に、土地勘と戦闘力を兼ね備えた案内人、すなわち護り役の手引きがなければ無事に村まで辿りつくことはできないのだ。

 村にとって”不法”に近付く者を排除する、それは護り役の重要な仕事の一つでもあるのだが、雫が護り役としての務めを始めてからこの方、案内なしに村外の人間がここまで来たことは一度もない。そういうこともあってか、二人の警戒の目は主に凶暴な獣の方へと向けられていた。


「あれは……?」


 籐馬と並んで歩いていた雫が、ふと足を止める。


「どうした、雫」

「ほら、そこ。茂みが揺れて……」


 雫がスズナリザサの群生を指し示した瞬間、小さな黒い影が複数こちらへ向かって飛び出してきた。咄嗟に身構えた二人の足元を慌ただしく走り抜けたのは、カクレネズミの一行だった。


「ああ、ネズミかぁ。びっくりした」

「……」


 刀柄から手を引き、胸に手を当てて大きく息をつく雫。ほっとしている雫の隣で、籐馬はカクレネズミがやってきた方向をじっと見つめていた。


「おかしいな」

「え?」

「カクレネズミが、外に出るなんて」


 独り言のような籐馬のその言葉に、雫も何かに気付いたか、その表情を硬くした。

 本来は土の中を一列になってゆっくり移動するはずの彼らが、列を崩してバラバラに地上を駆けるということはつまり、近くで何かしらの緊急事態に遭遇したと考えられるのだ。

 コノハグマの巣を借り宿にしていたところを、冬眠から覚めた家主に追い払われたか。それとも天敵のワモンヨウギツネに土を掘り返されたか。さまざまな憶測が二人の頭を過ったが、その思考を深く巡らせることはできなかった。


「まずい、ニジウサギだ!」


 籐馬が鋭い声を上げる。それに反応した雫が視線を滑らせ、相手を眼中に捉えたその瞬間、雫の腹部に重い衝撃が響いた。


「雫!」


 突き飛ばされ茂みに倒れ込む雫を、籐馬の声が追う。


「雫、大丈夫か!」

「……っ、平気。受身は取れたから」


 慌てて駆け寄った籐馬にそう答えながら、上体を起こす。

 雫はニジウサギの走り去った方を振り返ったが、もうその姿は見えず、足音や葉擦れの響きすら聞こえなかった。


「どこか怪我は……引っ掻かれてはいないのか?」

「ん、多分。ぶつかっただけみたい」


 手と目で自分の体をくまなく確認するも、衝突を食らった腹部に以外に痛みを感じるところは無く、どこか出血している感触もない。

 雫は籐馬の差し出した手に掴まりながら立ち上がり、服についた土ぼこりを払った。


「あのニジウサギ、俺たちを襲う気は無かったのか」

「そうみたいだね。慌てて走り込んできたところに、運悪く私が居合わせたって感じだったから」

「避ける余裕すら失っていたんだろう。あいつが血相を変えて逃げ出す相手と言えば、やはりコノハグマか……」


 籐馬がそう当たりを付けた時だった。


「ちげえよ、あほ。俺が追っかけてたの!」


 どこからともなく、という表現が一番しっくりくるだろうか。突然、男の声が響いたのだ。

 雫は地面を強く蹴り出して身を翻すと、籐馬と背中合わせの位置に収まりながら刀柄を握った。籐馬も刀身を引き抜いて構えながら、声の主を特定するべく視線を上下左右とあちらこちらに移動させている。

 緊張を高め、集中して周囲を警戒しているはずなのに、二人の視界には何者の影も映らず、その耳には存在を感じさせる衣擦れの音すら届かない。

 嫌な汗がじわりと背中に滲み出すのを感じ、雫は心を落ち着けようと、息を一つ大きく吐いた。


「なーんで二人もいンのに取り逃がす? 俺の昼飯にするつもりだったのによー」


 呆れたようにぼやくその声が響いたのは、二人のすぐ傍だった。

 籐馬の刀の切先が向きを変え、その動きと同じくして雫は姿勢を下げながら滑るように相手の背後に回り込む。

 その男の後ろ姿に、雫は驚いた。背中を覆う長い髪が、銀色の神々しい輝きを放っていたからだ。なめした革や黒い毛皮で拵えられた着衣から、男が狩猟を生業としている者であることは見て取れた。しかしその風貌で草木に紛れて獲物の視覚を誤魔化すのは、到底難しいことのように思えた。それほどに男の髪色は卓抜しており、そして美しかった。


「……お前は誰だ。何の用でここにいる?」


 じっと相手を見据えながら、籐馬が低く唸るような声で威嚇する。


「腹減ってんだよ俺。だからあのウサギ捕まえようとしてさぁ」

「俺が聞いているのは、そういうことじゃない」

「ああ、先に”俺が誰か”を言った方が良かった? おうすけってんだ、よろしくな!」


 間の抜けた返答に、籐馬は焦れたように舌打ちをした。この白々しい態度がわざとか否かは判断付きかねたが、このままではまともな話は聞き出せそうにないことは分かった。

 捕らえてここに来た目的を吐かせるか、あるいは二度と近付かないよう脅しつけて追い払うか。前後を取り、二振りの刀でその男――桜介の動きを制しているこの状況なら、対処は様々考えられる。腰帯に無造作に差した短刀以外は目立った武器は所持していないようで、その上形勢も二対一と明らかにこちらが優位に立っているはずだ。それなのに、雫も籐馬も体が動かない、否、動けなかった。

 今日、村に客が来ると言う伝達は届いていない。ということはつまり、桜介は自力で、そして見たところ全くの無傷でここまで辿りついたということになる。

 村の者でさえ手を焼く凶暴なニジウサギを一方的に追い込みながら、音も気配も感じさせないまま二人の傍らに現れたこと、こうして天真爛漫に振る舞いながらも僅かな隙をも見せない身のこなし。これらを目の当たりにしただけで互いの力量に歴然とした差が付いていることを、二人はおのずと嗅ぎ取っていたのだ。


「とりあえず、何か食うもん恵んでくれねえかな? 悪いようにはしねえからよー」

「……っ」


 籐馬に背を向け、今度は雫の方に訴えかける桜介。雫はびくりと肩を揺らしたが、それでも気力を奮い立たせながら桜介と対峙した。

 雫を迷いなく捉える桜介の瞳は明るい鳶色をしている。粗暴な口ぶりに反して顔立ちは銀に輝く髪に負けない程に華やかで、それでもどこか野生味を帯びている。余計なものを全て削ぎ落としたかのようにしなやかな体つきと相まった、その均衡のとれた姿形は、思わず賞賛したくなるほどのものだった。


「おーい、お譲さーん。聞いてる? 俺の話」


 不審そうに覗き込まれ、雫は慌てて刀柄を握り直すと威嚇の体勢を強めた。


「ここから更に北へ真っ直ぐ向かえば、森を抜けられる。あなたなら一日もかからないでしょう。外には宿も食料もあるから、」

「いやいや、だからさ。腹減ってもう一歩も動けないんだってば」

「……とにかく、私たちはあなたに何かを施す気はない。早々にここを立ち去りなさい」


 言いながら、桜介の肩越しに籐馬と視線を合わせる。それに気付いた桜介も、ちらりと後ろへ意識を向けた。


「……!」


 そのわずかな隙は、一秒もなかった。しかし雫の体は意識が働く前に既に動いており、薙ぎ払うように振った刀の切先は、桜介の首元をぴたりと捉えていた。


「黙って行け。しつこくするなら、斬るぞ」


 雫と同様、背後からを当てながら籐馬が凄む。桜介は両腕をだらりと下げたまま、それでも抗う気配を見せない。焦った様子もなく、それどころか口の片端を上げてにやりと意地の悪い笑みを浮かべる始末だ。


「……何が可笑しいの」

「勇敢だな、お前」


 鋭く睨む雫の問い掛けに、賛辞をもって応える桜介。動揺を誘うつもりか、と、雫は更に警戒を高める。


「おまけに速くて言うことなし。けどなァ」


 目を離した、という意識は無かった。二人は間違いなく相手の姿をしっかり捉えており、一挙手一投足まで見逃さないように集中していたはずだった。


「なんか足りねえんだよな」


 あざ笑う声がしたと同時に、桜介と、その向こう側にいた籐馬が、突然雫の視界から消えた。雫は何が起きたのか咄嗟に判断できず、同様に籐馬も自分が今どうなったのか分からなかった。

 籐馬の視界はぐらりと反転し、不意に受けた衝撃に堪え切れず刀を取り落とす。雫はそんな籐馬の姿を一瞬視界に捉え、すぐに桜介を探すために視線を移動させようとした。

 しかし、雫はもう動けなかった。さっきまで桜介に向けていたはずの刃を逆に自分の首に押し当てられ、背後から腕を取られて捻じり上げられたのだ。


「そりゃウサギ一匹捕まえられねえわけだ。浅すぎるんだよ、お前らは」


 足を払われてその場に倒れ込んでいた籐馬は、上体を起こして地面に転がった自分の刀に手を伸ばしたが、それは桜介に茂みの奥へと蹴り飛ばされてしまった。手向かう術を失った二人の脳裏には最悪の状況が浮かんだが、それでも何とか事態を打破しようとお互いの視線を合わせようとした時だった。


「お譲さん、名前は?」


 耳元に口を寄せて囁くように問い掛けられ、思いも寄らないその感触に雫の全身に戦慄が走った。


「俺だけ名乗らされるなんて、不公平だろ? ついでにあいつのも教えてくれよ」

「……」


 桜介の艶っぽい声は熱を帯びた吐息と絡まり、雫の耳から首筋をみだりがわしく撫で上げていく。首元に当てられた刀の冷たい感触さえなければ、後ろから優しく抱き締められているようにも感じられただろう。

 好いた相手をそのように扱われる光景を目の当たりにした籐馬は、当然のことながら気色ばんだ様子を見せる。桜介はその反応を目ざとく掴みとり、わざと挑戦的な目つきで籐馬を見据えた。

 一方で雫は、こういうのを色仕掛けというのか、とどこか冷静に分析していた。見目の良い男からこのように迫られれば女は思わず口を開いてしまうに違いない、硬軟織り交ぜて巧みに人心に取り入るその姿勢は見習う価値がある、などと、その色香に酔い痴れるどころか桜介のとった戦略の方に関心を向けていた。


「言えよ。お前じゃなく、あいつをぶった斬るぞ」


 色仕掛けが通じないと見るや、桜介はあっさり態度を変え、今度は正攻法の脅しにかかる。

 この体勢から雫ではなく籐馬を攻撃するのは、常人ならまず為し得ない難しい所業であることは確かだ。しかし先ほど至近距離で向けられた刃先をかわし、その上二人を戦闘不能にさせた桜介ならば、それ位はたやすくやってのけるに違いない。


「……雫。彼は、籐馬」


 これ以上の抵抗は危険であると判断した雫は素直にそう答えると、唇を噛みしめ、悔しさを滲ませながら視線を落とした。

 桜介は、未だ座り込んだままの籐馬を見下ろし、何事か考える素振りを見せていたが、やがて何か思いついたのか、よし、と一声上げてにこりとほほ笑んだ。


「籐馬。お前、俺に旨いもん食わせろ」

「……は?」


 何とも下らない要求に、籐馬は思わず気の抜けた声を上げた。


「とりあえず俺をもてなせば、黙って帰ってやるよ。雫にも何もしねえって誓う」


 朗らかに言いながらも、雫の腕を抑留する手に力を込めて脅迫することは忘れない。肩の骨が軋み、その痛みに雫の表情が険しく歪んだ。


「分かった! 分かったから、それ以上はやめてくれ」


 ゆっくり立ち上がりながら、籐馬は桜介を宥めるように答える。


「こちらもお前に絶対余計な手出しはしない。だがここで食事を用意するのは無理だ。だから」

「え……、ちょっと籐馬、まさか」


 口を挟もうとした雫を黙らせるべく、今度は首元に当てた刀をじわりと滑らせる。雫は息を呑み、それ以上の言葉を喉の奥にしまいこんだ。


「……ついて来い。村まで案内してやる」


 溜息と共に、籐馬が言った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る