第2話:何食わぬ顔

 悪気もなく逢い引きと告げた大山は、「苦しい苦しい」と笑いながら連呼している。

 まるでこの状況を楽しんでいるかのような。

 俺には到底理解できない、大山の二つ目の顔がそこにはあった。


「そ、それが翔太の二つ目の顔なのか。いや〜、驚きでもう……っ苦しい、苦しい。優しい先輩の顔に免じて離してくんねーかなぁ?」

「バカなのかお前? 人の彼女に手出しといて悪気もなく……」

「だーかーらー。翔太は何も分かってないんだよ。青臭いガキの癖して何言ってんだか」

「……っ⁉︎」


 俺の手首を掴んだ大山は、軽い身のこなしで俺の首に足を巻きつけると、自重を使い一気に俺の体を倒した。

 どこでこんな技を身に付けたのか、などのくだらない詮索はこの際どうでもいい。

 一瞬にして形成が逆転し、今では大山の足で首を締め上げられている俺。 

 やはりただの自信家ではない。術があるからこそ、余裕でいられるのだろう。


「どうだ? 苦しいだろ? もう暴れないなら離してやってもいいぜ?」

「……んな訳には……」

 

 意識が飛びかけている。

 今朝の心地よい失神とは違った、望まない形での昏倒。 

 人に手をあげた事が今まで一度もなかった俺にとって、この状況を打破できる手段はない。

 それに、今意識を失えば、目先で倒れている美沙にコイツは手をだすかも知れない……


 パンパンパン、と仕方なしに大山の足を叩いた俺は、ようやく酸素を吸うことができた。


「ふぅ〜。ったく、先輩舐めんじゃねーぞ、クソ真面目野郎。喧嘩の仕方も知らねーでよくもまぁ」

「ゲホっ、ゲホっ。う、うるさい。元はと言えばお前が……」

「お前?」

「……お、大山先輩が原因だろ」

「だろ?」

「……原因ですから」


 俺は息を整えつつ、段々と公正されていく自分を冷静に見つめ直した。

 そこそこ体格は良いとはいえ、走る為の筋肉ばかりの俺には大した力はない。

 見た目に反して力のある大山には喧嘩で勝てない。

 それを見切ったら、次に何をするべきか。

 美沙は絶対に渡さない。ただそれだけを胸に、言葉で押し勝つしかない、か。


「そんじゃ、俺はもう帰るわ」

「は⁉︎ あんた何言って……」

「美沙は絶対に俺の元に来る。お前の美沙よりも強いからな」

「何を意味のわからないことを……」

「んま、そういうこった。お前はお前らしくいろよ、翔太。俺に勝てるかどうかは別として。な?」

「ちょ、ま……」


 ガラガラ、とドアが閉まる音だけが虚しく響き渡った。

 終始自信に満ち溢れた発言をしていた大山。それに比べて俺は……情けない。

 完全に、無知な赤子のように弄ばれていた。

 俺が弱いから……あの時変わろうとしなかったからこうなったんだ。

 大山の言葉に惑わされて、今日という日を棒に振るってしまったから……。

 だとしても、この現実を未然に防げたかどうかも分からない。

 それに美沙はいつから大山と……


「ん、んん……。あれ、翔太? どうしたのこんな所で?」

「……美沙?」

「うん、美沙だよ」


 起き上がった美沙は、乱れた髪を整えて普段通りの笑顔を見せた。

 演技をするように大山に言われているのか?

 にしては自然すぎるような気もする。

 加えてあの時倒れた原因……高熱でトランス状態に陥っていたとかも考えられる。

 ならば、いまさっきの一件は大山だけに非がある事になる……のか?

 そんな淡い期待を抱きながら、俺は美沙の額へとそっと手を伸ばし、体温を測った。


「普通……だな」

「ふぇ? 急にどうしたの……って、首にアザができてるよ⁉︎ 本当にどうしたのさ?」

「いや……なんでもないよ。それより……」


 本当に、直接聞いても良いのだろうか?

 美沙が演技をしているのなら、俺には知られたくない事実の筈。

 って、それは当然か。浮気なんて彼氏に知られたくはないだろう。

 空気を読んで美沙に合わせるべきか。それとも遠回しに聞いてみるべきか。

 拷問の如く問い詰めて、真実をハッキリさせる手段だって存在する。

 でももし、何か特別な事情があったら?

 言いたく無いのに喋らせて、美沙に不快感を与えてしまうのは一番避けたい。

 

 いや待て……何考えてるんだ、俺は?


 美沙は大山と堂々とキスをした。

 その現場を目撃された可能性を考慮せずに、シラを切り続ける。

 母親の好きな昼ドラマの悪女でさえ、苦しいながらも言い訳はしていた。

 だけど美沙は何も言わない。

 浮気と言う名の不条理に理由なんて存在しない、と主張できるのは、美沙ではなく俺の筈だ。

 別に隠して欲しいわけじゃ無い。ただ、俺の中での確信が揺らいでしまう。

 俺の知っていた美沙が、悪気もなく浮気をする大山のような人間だったなんて、思いたくないんだ。

 いまだに小首を傾げている美沙の双眸を見つめ、俺は今にも震えそうな口を慎重に開いた。


「それより……美沙。俺に話さなきゃいけないこととかないか?」


 嫌な意味で心臓が高鳴る。

 漏れ出してしまいそうな本能を抑えるために、俺は頬の肉を軽く噛み続けた。

 血の味がする。ひたすらに痛い。

 恐怖心と悲哀を殺すために、痛覚と味覚へと意識を逸らす。

 美沙の声帯が振動を始めるまでの、その一瞬のためだけに。


「……え? 話さなきゃいけないこと?」


 美沙は俺に返答を求めている。

 沈黙し、瞬きすらしない俺を不思議そうに見つめている。

 不思議に思っているのは俺の方だ、と言ってもまたシラを切られるだろう。

 

「そう、話さなきゃいけないこと。なんか俺に隠してない?」


 赤い血液が歯根まで広がっていく。

 この時間が長引く限りは止まらない。まるで俺の心情を体現しているかのようだ。

 彼女を疑う。現場を目撃したとはいえ、「本心」を大山に鎮静させられてしまった俺にとっては、自傷行為にも匹敵する。

 できることなら信じたい。あの光景が、嘘だったと思いたい。

 そんな希望的観測を続ける限り、傷口が広がり続けると理解していても。

 

「うーん、どうだろう? 私何か隠してるのかな?」

「……ど、どうかな。あはは……」


 何故俺に聞いた?

 何故そんなにも無垢な表情を浮かべられる?

 何故いつものような違和感を見せてくれないんだ?


「……何か隠してるって。翔太は本当にそう思うの?」

「俺はただ……っ⁉︎」


 なんでだよ。

 なんで美沙が泣くんだよ。


「私……隠してるのかな? 翔太に疑われちゃうようなことしちゃったのかな……。あれ、なんでだろう……。謝るべきなのは私の方なのに……泣くなんて……」

「いや、違う……俺はただ……」


 –––ただ、なんだ?


「ごめんね。ごめんね翔太……。何を隠してるか分からなくてごめんね……」

「…………」


 頬に滴る涙を懸命に拭う彼女の姿。

 それをただ黙って見ている俺は、ひどい彼氏なのだろうか。

 

「こんな彼女で……ごめんなさい……」


 何をやっているのか、自分でもよく理解できない。

 ゆっくりと彼女の元へと近づき、ハンカチで目元を優しく撫でている自分。

 そっと抱き寄せた小さな頭は、抵抗することなく俺の腕の中へと吸い込まれていく。

 花のような香り。大好きな温もり。華奢な体。

 それら全てを間近で感じることがこれ程幸せなものなのだと、思えば最近は忘れていたような気がする。


 やっぱり、これが俺の本心なのだろうか。


「……いや、美沙は良い子だよ。俺の方こそ疑ってごめん。だから……」

「翔太。翔太……」


 美沙は小さな声で俺の名を呼び続けた。

 その度に強い何かで打ち砕かれていく、俺の心。

 

 グシャ。

 

 その不快な音を聞いたのは、俺だけだろう。

 離れ離れになった頬の一部から、多量の赤い涙が溢れ出す。

 美沙が細い声で俺の名を呼ぶ限り、永遠に拡大していくであろう真紅の大海原。

 

 –––まだ、足りないのか?


 その悪魔は、望みを叶える為に代償を催促し続ける。

 これだけ血を捧げても、まだ満足してくれない程に強欲だ。

 入れ物から漏れ出た負の感情も。俺という人間の持つ幸運さえも。

 全てを奪い去られた後、そこに残るのは「本心」だけだろう。

 それほどに、今の気持ちは誰からも理解してもらえない。

 何より、俺自身も分かってはいないのだから。

 

「翔太、ごめんね………………」


 疲れてしまったのか、美沙はぐったりと俺の体に寄りかかった。

 一度は消した「体調不良」の可能性が急激に浮上してくる。


 でも今更、美沙の裏切り行為を正当化しようとは思わない。

 

 例え魔が差しただけでも、心から願ったのだとしても。

 どんな理由でも許せる、という訳ではない。

 だけど、あの光景を否定することは不可能だ。

 胸の底から込み上げてくる嫉妬心。

 不貞さを汚らわしいと思ってしまう俺の小さな器。

 現実を否定することは、俺の本心を拒絶するのと同じ事なのかも知れない。

 

「なんかだか、この十数分で随分変わったな、俺」


 美沙の綺麗な髪を撫でながら、俺は天上へと話しかけた。

 ただの独り言。誰に返事求める訳でもなく、自分を納得させる為の呟き。

 

 ……の筈だった。


「そうかしら? でも、私はこっちのアナタの方が良いと思うわよ?」


 それはとてもとてもハッキリとした寝言だった。

 ほんのり温かい吐息が俺の袖へと染み込んでいく。


 –––あぁ。この感覚だ。


 半年前からずっと悩んでいた、心地の悪い違和感の正体。

 今までとは比べ物にならない、ハッキリとした異質さ。 

 

「君は……誰だ?」


 二年間寄り添ってきた大切な彼女。

 彼氏として、一番聞く必要のない質問を俺は投げかけた。

 腕の中で不気味な笑みを浮かべる、大好きなに……。

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先輩、俺の彼女と何をしてたんですか? 朝の清流 @TA0303

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