免罪符

山南こはる

第1話

 病院での毎日は、想像しているよりもずっとつまらないものだった。

 はじめのうちは、面会者も多かった。友人たち、学校の先生、バイトの仲間。わたしのことを蛇蝎だかつのごとく嫌っている母でさえ、毎日顔を見せていた。

 それが今では、誰ひとりとして訪ねてこない日もあった。入院して早、一ヶ月。手術後の高齢者がボケるというのも、なんとなく納得ができた。

 クリームシチューと丼いっぱいのおかゆ。食欲の湧かない昼食後、マスクをして、一階のロビーへと降りていく。誰かを待つためではない。暇つぶしだ。母は昨日面会に来たから、おそらく今日は来ない。姉の具合が悪いと言っていたから、なおさらだ。

 会計と調剤を待つ患者たちの中、入院着姿のわたしはひどく目立っていただろう。ロビーの中央、大画面に映るNHKのニュースを見ていると、唐突に声をかけられた。

「やあ」

 聞き覚えのある声。驚いて顔を上げると、いとこのかけるが目の前にいた。彼は「いい?」と目配せしながら、となりの席に滑り込む。

「どうしたの?」

「お見舞いだよ」

「わざわざ、来てくれたの?」

「そんな、わざわざってほどじゃないよ。ただ、お袋に聞いたから。一応、ね」

 翔はわたしたち三姉弟の、ただひとりのいとこである。母の姉の息子。今年で大学三年生。わたしの姉、珠美たまみのひとつ上。

「伯母さん、来てないの?」

「昨日来たから、今日は来ないよ」

「毎日来ないのか」

「来られたって困るよ。べつに、ふつうにしていれば、なんてことないし」

 強がりと言われれば、それまでだ。だがわたしはほんとうに、母が来なくとも構わなかった。

 ただ気に食わないのが、わたしより姉を優先させること。幼いころからのことだし、わたしが悪いのはじゅうぶん分かっているつもりだが、それでも腑に落ちない。

「伯母さん、珠美ばっかり猫かわいがりしているもんな」

 そう言う翔の目は哀れみに満ちている。まるで、雨に濡れた捨て犬を見つめるような視線。

 それに、母がかわいがっているのは姉だけではない。弟も、だ。要するに、わたしだけが、母の寵愛ちょうあいにあずかれていない。そういうことなのだ。

「……なあ、ちひろ?」

「なに?」

 翔の声が、急に深刻さを帯びて、重くなる。

「ああ、いや……。なんでも」

 ウソだ。なんでもないわけではない。彼は何か言おうとしている。

 でも、困惑している。言うか言わぬべきか。でもそれを言うために、彼はわざわざ、わたしの面会に来たのかもしれない。

「珠美がやけどした時のこと、覚えているか?」

「……」

 覚えているも、何もない。あれはわたしのせいだ。わたしがやったことだ。

 火をつけっぱなしのコンロ。ソーセージをボイルした、脂の浮いた熱湯。玄関のチャイムが鳴って、母はその場を離れた。すぐに戻るつもりだったのだろう。

「……」

 姉とわたしはそこにいた。母のまねごとでもしたのだろう。わたしは小さな手を伸ばして、鍋の取っ手をつかみ、そして……。




「おい、ちひろ。ちひろってば!」

 翔が慌てた表情で、わたしの顔をのぞき込んでいた。肩をつかむ、大きな手。

「しっかりしろ……。大丈夫か?」

「ん……。うん」

「それで、覚えているのか? ちゃんと」

「ちゃんとじゃないけど……。なんとなく」

 あの『事件』があった時、姉は五歳、わたしは三歳だった。物心つく前の話。

 正直、キチンと覚えているわけではない。わたしの記憶を補っているのは、周囲の大人たちがしていた話だ。そして姉が母に言いつけた内容と、母の罵声。それがわたしの記憶を形作っている。わたしが見ていたはずの、ほんものの光景よりも、ずっと。

「……翔くんも、いたんだよね?」

 伯母が訪ねてきたから、母はキッチンを離れた。おそらく彼も、あの場にいたはずだ。

 こんなことを彼と話すのは、はじめてのことだった。

「ああ……」

 テレビの中では、表情を消したロボットみたいなアナウンサーが、淡々とニュースを読み上げている。

「あの時、どんなだった? やっぱりわたし、タマ姉の顔に、お鍋のお湯……」

「……」

 今度は翔が顔色を失っていた。彼の口が、小さく動く。「ごめん」と。

「何が、『ごめん』なの?」

「……なんでもない。ちょっと飲み物、買ってくるよ。何がいい?」

 いらない、と言おうとしたが、翔の青白い顔に浮かぶ笑みは、それを許さない。

 彼はややふらつく足取りで、自動販売機へと向かう。わたしはその背中を見つめながら、これから嵐がやってくることを、かすかに予感した。






 わたしは三人姉弟の二番目として生まれた。上に姉の珠美、下に弟がいる。

 物心ついたとき、わたしに対する差別はすでにはじまっていた。主導していたのは母である。

 仕方のないことだと思っていた。かつて幼いころ、わたしがやらかしたこと。記憶のない出来事。それでもわたしはやってしまったのだ。姉の珠美に、頭から熱湯をかけてしまったこと。覚えていない、知らないではすまされないこと。幼いわたしはやってしまった。

 わたしが三歳だったころのある日のことだ。ちょうどお昼の少し前、家に伯母といとこが訪ねてきた。このいとここそ、翔である。

 その日、もともと伯母たちが訪ねてくることになっていたのか否か、わたしは知らない。ただ母はキッチンを離れた。わたしと姉がどこにいたのか分からない。でも信じたいのだ。母が幼い子どもたちふたりをキッチンに取り残して、玄関の方へ行くことなんて、なかったということを。ましてや鍋に火がかかったまま、中にソーセージをゆでた、脂が浮いた熱湯が入っている状態で、立ち去ったなんてこと、あるわけないと。

 そこから先、どうなったのか分からない。あとは身の回りの人たちからの、伝聞だ。

 わたしは母のまねごとをしようとしたらしく、鍋をつかんだ。小さな身長では、それが限界だった。背伸びしていたわたしはバランスを崩し、それでも鍋の持ち手を離すことはなくて。

 鍋が宙を舞い、湯がまき散らされた先に、姉の珠美がいた。


 覚えていない。何もかも。ただ母の絶叫と姉の泣き声、救急車のサイレン、そして母がわたしを責める声だけが、わんわんと耳に響いている。






 それからというもの、母はわたしのことを蛇蝎のごとく嫌い、あからさまな差別を繰り返した。よそに捨てられなかった分、まだマシなのかもしれない。

 気が狂ったような母。わたしに数多の虐待を行い、一方で姉と弟を溺愛した、母。それでもわたしは、甘んじてそれを受け入れた。仕方なかったのだ。姉をあんな風にしてしまったのは、他でもない、わたしなのだから。

 姉の珠美は上半身を中心に、大やけどを負った。とくに顔面は身内でも直視できないくらいにただれ、崩れていた。

 そんな姉を、母は何よりもかわいがり、慈しみ、そして愛した。彼女がちょっと具合を悪くすると、それだけで大騒ぎをはじめた。そして最後、怒りの矛先はわたしに向かう。

 わたしが強い折檻せっかんを受けるたびに、姉は小さく舌を出した。わたしは知っている。姉は仮病を使っている。必要以上の保護を受けるために、彼女は知略をめぐらせて、あの家を支配していた。

 珠美はやけどがあるから仕方ない。珠美は悪くない。悪いのはお前だ。

 幾度となく吐かれた暴言。飛んでくる平手打ち。いたずらっ子めいた表情の姉。父の乾いた視線と、飛び火を被らないように、大人しくしている弟。

 誰も母を止めなかった。母こそが、正義だった。母から守られる姉こそが、女王だった。

 あの家の中で、わたしは罪人だった。覚えのない、でもたしかに行われた罪によって両手を縛られた、哀れな囚人。

 お姉ちゃんはやけどがあるから仕方ない。お姉ちゃんは悪くない。珠美は免罪符を持っていた。愛されるための免罪符。保護を受けるための免罪符。ありとあらゆることを病気やケガのせいにできる、免罪符。

 そんな免罪符に、わたしは心の底から憧れていた。こんなことを言っては失礼かもしれないが、わたしは病気になりたかった。大やけどの後遺症で苦しむ姉を乗り越えて、家族や身の回りの人たちの庇護が、すべてわたしに向くような苦しみや障害を、わたしはいつも、欲していた。




 そんな思いを抱えて日々を過ごしてきたのだ。今回、大病を患ったのは、きっと神さまの天罰に違いない。

 母は最低限の面会にしか来ない。長女の看病が忙しく、その上、次女まで病に冒された、かわいそうな母親。母は外ヅラがいい。けっしてボロを見せなかった。

「はい、お待ちどうさま」

 翔が帰ってきて、缶コーヒーを手渡してくれた。熱い缶の表面。やけどしそうになる熱。袖を手袋がわりにすることもせず、わたしは素手で、缶をつかみ続けた。わたしが姉に負わせたやけどは、こんなものでは済まなかったのだから。

「何、考えてたんだ?」

 翔はするどい。そして優しい。思えば親族の中で、わたしに好意的に接してくれたのは、いつだって彼ひとりだった。

「あの事件のことだよ。……やっぱり、よくは覚えていないの」

「……」

 彼はわたしの顔を見て、ひどく気の毒そな表情になる。

「わたしね、病気が分かった時、嬉しかったの」

「嬉しかった?」

 予期していなかった言葉。

 気の毒そうな顔が驚きに反転してから、わたしは、

「病気だから仕方ないって感じでさ。これでワガママでも悪いことでも、何でも許してもらえるって、期待したんだ。……タマ姉の、やけどみたいに」

 何でも許してもらえる免罪符。誰にも口にしてこなかった願望。翔の前だと、すらすらと流れ出てきた。わたしは自分が思っている以上に、このいとこのことを信頼し、慕っていたらしい。

「……あのさ、ちひろ」

「なに?」

 自販機に向かう前も、彼は何か言いたそうにしていた。ゴクリとツバを飲む。動いた喉仏。わたしは血のつながったいとこに、男性の面影を見ていた。

「……俺、見てたんだ」

「……?」

「俺、あの日、見てたんだよ。お前は覚えていないかもしれないけど……」

「あの日、って?」

 訊かなくても分かることだ。あの日。わたしが鍋をひっくり返し、姉に熱湯をかけた日。すべてがひっくり返った、あの日。

「俺、母さんといっしょに、玄関にいたんじゃないんだ……。その、お前と珠美のこと、驚かしてやろうと思って、俺……」

 庭の方に回ったんだ。

「ガラス戸は鍵が開いていて、俺はそこから部屋に入った」

 居間とキッチンを隔てているのは、薄い引き戸が一枚だけだ。あのころは初夏で、涼しい風がキッチンを通り抜けていた。

 引き戸は開いていた。翔は見たのだ。わたしが鍋を触った瞬間を。湯がまき散らされ、姉が大やけどを負う瞬間を、この目で見ていた。

 だが、

「驚いたよ」


 だって。

 珠美が鍋をつかんで、自分に熱湯をかけたんだから。


「え……?」

 意味が分からなかった。ようやく絞り出せた声も、震えて言葉にならなかった。

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。珠美は自分で湯を被ったんだ。そして大声で泣き出した。ちひろがやった、ちひろがお湯をかけた、って」

「……」

 あのころ、わたしはまだ三歳。うまく説明することもできなかったし、何より物心つく以前のことだ。真相なんて、まったく覚えていない。

 姉は自分から湯を被った。そしてわたしに罪をなすりつけた。その一部始終を、翔は見ていた。

 彼は続ける。

「ずっと言うべきだと思っていた。だけど、勇気がなかったんだ……。自分で熱湯を引っかける珠美が、怖くて仕方なかった」

「……」

 翔は青白い顔をしている。目の端に溜まった涙。頭を抱える両手は大きく、筋張っている。

 わたしは言葉を発することができなかった。十数年ごしの真実。自分は罪人でないことを知らされた開放感。

 そして今まで受けてきた、理不尽な仕打ちに対する怒り。どうしてもっと早く話してくれなかったのか。このいとこに対する不信感。ありとあらゆる感情が綯い交ぜになって、わたしはめまいを覚える。

「……タマ姉、どうして、そんなことを」

 分かっていた。彼女の気持ち。大やけどをすれば、母の寵愛が得られるから。いいや、母だけではない。周囲の人間、全員の愛を、同情を、欲しいがままに求められるから。

 姉のぐずぐずに崩れた皮膚と、その下のゆがんだ顔。彼女が小さく舌を出す。

「……」

 要するに、わたしたち姉妹は同じことを考えていた。

 愛を欲し、目に見える形の不幸を背負い込み、そして、哀れんでもらいたい。ありとあらゆることを許される、かわいそうな免罪符。傷病人としての免罪符。

 妹ばかりかわいがられる現実を、姉は受け入れられなかったに違いない。だから彼女は熱湯を被った。そしてわたしに罪をなすりつけて、被害者になった。


「……」

 真実はわたしの心を押しつぶした。まっすぐ座っているのが辛くなり、うずくまる。

「おい、ちひろ!?」

 手からコーヒーの缶がすべり落ちる。缶の口からこぼれる液体。キッチンのフローリングに飛び散ったお湯も、あんな風にこぼれていた。

「すみません! どなたか、手を……!」

 翔が周囲に助けを求める声が、暗闇に沈んだ意識の片隅で、かすかに聞こえた。


 いとこの腕に抱えられ、わたしは満たされていた。心の隙間を埋める、暖かい感情。誰かに愛され、庇護され、守ってもらえる安心感。

 ああ、わたしも姉といっしょだ。

 わたしもこうやって、誰かの愛を受けるための免罪符が、ずっと欲しくてたまらなかったのだ。

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