2話 「死神」

 今日、僕は勇気を振り絞って大きな一歩を踏み出す。




 ……僕には生きていく上での居場所がどこにもない。


 学校では、悪口やものを隠されるなんてことは日常茶飯事だし、水はかけられない日のほうが少なくて、カッターナイフでは何度も切りつけられて今では見るだけで過呼吸になるほどのトラウマとなってしまった。

 しかも他の生徒、さらには先生までもが関わるまいと僕のことは見てみぬふりで、どこにも助けを求められる人なんていない。


 そして家では、食事は床に投げ捨てられるし、少しでも親の気に障るようなことをすればすぐに拳や蹴りが飛んでくるし、気に障るようなことをしてなくても拳や蹴りが飛んでくることすらある。


 おかげさまで中学二年生の今まで五年以上の間、体に無数の痣と傷跡は絶やしたことがない。

 ずっと日々が憂鬱で苦痛で仕方がなかった。逃げ出したら何をされるのか怖くて逃げることもできず、ただひたすた耐え続ける毎日だった。


 けれどもそんな日々とも今日でおさらばだ。

 僕をイジメてる奴ら、虐待を行う両親、見てみぬふりをする生徒・先生。今日、僕はこの全員に対して復讐を果たす。

 思い切り良くドアを開けると、頭上に広がる空はまるで僕の復讐を応援してくれているかのように青く澄み切っていた。




 ドアを開けると、僕はドアとは逆の位置にあるフロアの端までまっすぐと、一歩一歩踏みしめて歩いていく。そして僕の腰より少し高いくらいの柵をまたいで柵の向こう側へと渡る。

 チラッと下を見てみると何度も見た景色と同じはずなのに、柵の手前か奥かというだけで否が応でも高さを意識させられてしまう。

 本当に耐えられないほど辛かったときに時々逃げ場所として利用していた、誰も寄り付かない旧校舎の屋上……、ここほど僕の復讐にピッタリの場所はないだろう。



 今から僕はここから



 そのことを想像すると怖気づいてしまいそうになるが、今やめたらまたイジメの日々が待っていると自分に言い聞かせて自らを奮い立たせる。

 靴を脱ぎ、自分の横に揃えて置く。そして、ポケットから遺書を取り出して靴の中に挟み込む。


 この遺書にはいままで受けてきたイジメ、虐待、見てみぬふり……そんなことがひとつひとつ事細かに記してある。この内容がマスコミなんかに知れ渡れば世間からのバッシングで、僕をイジメてきたような奴らに社会的ダメージを負わせることができる。それに加えて、身近な人が身近なところで死ぬということによって――たとえそれが僕であっても――トラウマや精神的ダメージを負わせることができるだろう。

 これが僕の「」だ。




 もう後は飛び降りるだけとなった。

 覚悟を決めるために一度落ち着こう……。そう思って深呼吸をしたその時だった。


「あんたなにしてんの?」


 突然背後で声がした。誰もこんな旧校舎にはいないと思っていた僕は、驚きのあまり心臓が飛び出しそうになる。

 思わず柵を強く握る。その手には脂汗が浮かんでいた。


 後ろを振り返ると柵を挟んで五メートルほどのところに、小学校高学年くらいであろう少年がたっていた。

 全身黒色の服装をしたその少年は目つきが鋭く、ほっそりとしていて少し怖い感じがするが、それ以上にとてつもなく顔立ちが整っている。


 平静を取り戻した僕は少年に冷たい眼差しを向け、言い返す。


「君には関係ないだろ。どっかいってく――」


?」


 少年はそう言って、僕の目をまっすぐ見据える。

 自殺を止める言葉が飛んでくると思っていた僕は、予想外の言葉に呆気にとられて何も言えず、ただ少年の目を見ることしか出来なかった。

 少年の目を見ていると吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。

 この少年には独特で不思議な、圧倒されるような雰囲気がある。


「屋上っていってもこの校舎3階建てだし、落下面土だし……せいぜい骨折止まりだよ?」


 僕のことなどおかまいなしで少年は続ける。


「あんたほんとに死ぬ気ある???」


 そう言って少年は僕のことを小馬鹿にしているような目を向けてくる。


「うるさいな!!! じゃあどうしろっていうんだよ!?」


 急に現れて、さらに誰かも分からない少年に、小馬鹿にされているような言い方でやろうとしていることを批判され、さすがにイライラして声を少し荒らげてしまう。

 声を荒らげた僕に全く動じず、少年は自分を指さした。


「俺についてこい」


 それだけ言うと少年はくるりと後ろを向き、僕のことなど気にせずにドアの方へと向かって歩いていく。

 慌てて僕は問いかける。


「ちょ……、あんたは誰なんだよ!?」


「俺か?」


 少年は振り返ると、ニッと本当に音がなりそうなくらいの不敵な笑みを浮かべる。


だよ」


 そう言う少年の背中には本当に死神のような黒い翼が生えているように見えた。




 結局何も説明はなかったが、少年の雰囲気に圧倒されて僕は少年について行った。それが正解かのように思えて仕方がなかったのだ。

 終始無言でただ少年の後ろについて歩いていくと突然少年が立ち止まった。どうやら目的の場所についたようだ。


 見上げるとそこはテレビやネットニュースなんかで一時期話題になった、僕もよく知っている来月オープンの巨大複合商業施設だった。周りは人が入らないようにと、オレンジ色の工事用フェンスで囲まれている。

 実際に見るのは初めてだったのでしばしその大きさに驚いて、しげしげと眺めていた。


「おい、こっちだ、はやくしろ」


 気づくと少年は少し離れたところで、フェンスとフェンスの間にある僅かな隙間へと体を滑りこませてフェンスの中へと入っていこうとしていたところだった。僕も慌てて少年の後に続く。


 フェンスの中に入ると、少年はすぐさま建物の裏口だろうか……、近くにあったそれらしき扉を慣れた手つきでこじ開ける。

 それが開くと建物の中に入っていき、すぐ側にある螺旋階段をずんずんと登っていく。僕も置いていかれないようにと必死に追いかける。




 かなり登っただろうか……、僕は階段の一番上に着く頃には息が切れて、動悸がかなり激しくなっていた。

 先にどんどん登っていた少年は階段の一番上で僕のことを待っていたが、少年は息一つ乱れておらず、何食わぬ顔で「遅い」と僕に一喝してくる。


 扉を開けて外に出るとそこはその巨大複合商業施設の屋上だった。相も変わらず空には雲ひとつなく、澄み切った青空が広がっている。


「ここなら確実に死ねる、下、見てみな」


 屋上の縁にある小さなでっぱりにドカッと腰を下ろした少年は、微笑を浮かべながら下を指さして言う。

 僕は言われた通りに屋上の縁まで行く。ここは旧校舎と違ってフェンスがないからちょっとのことで落ちてしまいそうだ。

 下を見ると、旧校舎から見た高さとは全く比べ物にならない目眩がするほどの高さに恐怖で足がすくむ。下を通っていく人たちが豆粒ほどの大きさに見える。少なくとも四十メートルはありそうだ。


「俺ができるのはここまで。後はどうぞご自由に飛び降りてくれ」


 小さなでっぱりに座りながら少年はそう言って、僕の方をじっと見てくる。

 本当は自分のタイミングで飛びたかったが、少年に見られていることでなんだか急かされているような気がして仕方なく飛び降りる準備をする。

 靴を脱いで、その靴の中に遺書を置く。そしてでっぱりの上に立つ。

 これでもう、一歩先に踏み出せばすべてを終われせられる。


 けれど、その一歩がなかなか踏み出すことができない。死ななきゃ、と頭では理解してるのに、飛ぼうとしてもさっき見た足がすくむほどの高さが思い出されて体が言うことを聞かない。

 僕は一旦目を閉じて、深呼吸をして心を落ち着かせる。今までされてきたことを思い出し復讐心を再燃させる。

 しかし、どれだけ落ち着いても、復讐心を増幅しても、一向にその一歩が踏み出せない。


 その時、突如として背中側から激しい風が吹いてきて目を閉じていた僕はバランスを崩し前のめりに倒れていく。ヤバイと思い必死に屋上へと体を戻そうとするが無理だった。


 あぁ、落ちるんだ。

 そう思った瞬間大量の感情が頭の中に流れ込んできた。


 今から死ぬのか……。

 ちゃんと覚悟ができてから飛び降りたかったな……。

 けどこれで苦痛から開放されるんだ……。

 でも最後くらい格好つけて死にたかったな……。

 あぁ、本当に死ぬのかぁ……。


 ――嫌だ。

 嫌だ……。

 嫌だ……!!!




 まだ、…………!!!




 屋上から両足とも離れようとしたその瞬間、僕は強い力で首根っこを掴まれて屋上へと引き戻された。どうやら少年が僕を引き戻したようだった。

 僕は自分が助かったことに気がつくと、腰を抜かしてへなへなとその場に座り込んだ。目からは大粒の涙が溢れてくる。

 そこに少年が顔を近づけてきて、真剣な顔で言う。


「今、死にたくないって思ったろ」


 僕は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも頷く。


「イジメられて虐待もされて……、けど誰も助けてくれないから死ぬ? ばっかじゃねぇの??? イジメや虐待から逃げ出す方法なんて、死ぬ勇気を持ち合わせてるのなら自殺の他ににいくらでもあるわ」


 そして少年はかがんで、座り込んでいる僕に目線の高さを合わせ、その肩にポンと優しく手を置く。


「なんか一回やってみな? 色々やってみてそれでもどうしようもなくなった時にまた、ここに来ればいい。ただ、基本的にはどうにかなっちゃうもんだよ」


 それだけ言うと少年は「じゃあな」と言って立ち上がり、でっぱりの上に立つ。


「待って……!!! 本当に一体君は何者なんだ……?」


「だからいっただろ?」


 そう言って少年は屈託のない笑顔を浮かべる。


だよ」


 少年はそう言うと背中から体を倒し、屋上から落ちていった。

 僕は慌てて屋上の縁まで駆け寄って下を見ると、どこにも少年の姿はなかった。

 しかし少年の姿の代わりに何枚かの黒い羽がひらひらと地面に向かって降っていくのが見えた。




 一人になった屋上で、僕に投げかけてくれた少年の言葉を反芻する。


「なんか、やってみるか……」


 寝そべって上を見上げると、空が僕の新しい一歩を応援してくれているかのようにとても澄み切っていた。

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非日常 入江 帆 @irie_sail

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