血と声
早稲田暴力会
一
1
朝なりの小雨が止んで、むやみに冷えた大気が肌を脅かす時間だった。風ともいえない漣にか細い泣き声が交わり、深閑とした花壇にささやかな波紋を拡げている。
もうどれくらいこうしているだろうか、と僕は思った。煉瓦造の花壇の縁に腰掛け、俯いている自分の額に、もの憂い退屈の雫が結んでは、顎まで達して滴っていくように感じた。それが足元の水面に、無為に溶け入って消えていくのも、幾度と知れず繰り返しているに違いなかった。そしてまた、雫が緩やかに育っていく。……悲愁の声は途絶えなかった。涙は時折弱まりながら、涸れるかと見えて危うげに続いた。
「泣いてるだけじゃわからないよ」
と祥平が優しく言った。震える背中に手を添えて、「宏明」と、すぐには話せない彼の名を呼んだ。
懸命に話す宏明の声は小さく、祥平一人が耳を寄せてそれを聞き取っていた。しばらくして祥平が立ち上がり、僕の方へ来た。僕は近づいてくる祥平の顔よりも、数歩離れた場所に自分と同じ姿勢で座っている宏明をぼんやり見ていた。
「犬が殺されたって」
「犬?」
「宏明が飼ってた犬。見たことないの?」
「ない。……殺した、じゃなくて?」
宏明の両手は血に濡れていた。半ば乾いたところと、まだ潤いを残したところが、紅の斑らになっている。顔にも及んだ模様の上を涙が伝って、その色を何条にも滲ませている。
「昨日、宏明が犬と散歩してたら、叫びが家から出てきたらしい」
「叫び?」
「頭のおかしい奴だよ。宏明の家とここの中間くらいに住んでる。俺と宏明には通学路だけど、高井は違ったね」
「叫びって名前?」
「気に入らないことがあると家から出てきて、ずっと何か叫んで暴れてるんだ。名前なんて誰も知らないから、叫びって呼ばれてる」
「ああ、そう」
「叫びの家の庭に犬が繋がれてるんだけど、宏明の犬と吼え合いになった。飼い主と同じで、狂ったみたいに吼えるから」
僕は見も知らぬ狂犬の哮り立つ姿を想像した。そしてこういう時、声にあらわさずとも、黙っているだけで相槌に足りることを思い出した。
「叫びが出てきたから逃げて、そのまま散歩を済ませたんだけど、今朝庭で犬が血を吐いて死んでた」
「なんで」
「逃げる時、叫びに木材か何かで腹を殴られたって。帰った時は平気そうにしてたけど、朝には死んでた」
それで? と訊くかわりに僕はまた宏明を見た。彼はまだうなだれて、死んだ犬のために泣いている。宏明にとって、その犬は何だったのだろうかと僕は考えた。
「それで、どうするの?」
右隣に座った紘一が言った。彼はこちらを見ないまま答えを待っているようだった。肥った頬には料峭に逆らって汗が流れ、常から騒がしい息づかいの音がはっきり聞こえた。何事にも興味を示すということのない大きな体のこの友人が、今の話をどこまでまじめに聞いていたのか誰にも知れない。彼はひらいた手のひらを徒に翻しては、ここにはいない犬の死を眺めるように見るともなく見ている。
「どうするって」
「殺されたんでしょ」
紘一は体を乗り出して、宏明に訊いた。
「宏明! 悔しい?」
嗚咽が止まった。ほとんど忘れかけていた音が、葉籠もりの谿水のようにひっそりと流れていたことを僕は静寂から知った。ここに留まれば、地面に溜まっていく涙に知らず識らず溺れていく予感がした。
不意の問いかけに、この一帯が時間の空白に囚われたようだった。長い間沈黙が続いた気がしたが、宏明が涙を拭いながら頷くまでには、実際は数秒もかからなかったのかもしれない。
「よし、行こう」
紘一が立ち上がり、校舎の方へ歩き出した。祥平も戸惑いながら後に続いた。僕はどうしたら良いか分からないまま座っていた。そして数秒が経ち、長くて曖昧な、透明な紐に引かれるようにして僕は二人についていった。
2
「だから、黙ってたら分からないだろ?」
窓から眩く差してくる斜陽に縁取られて、男の姿は暗い影に閉じ込められていた。こちらを向いているはずの顔は、ほとんど楕円形の闇の皿だった。顔に求めようもない表情は、その声のうちにも気配すらなかった。大きすぎる窓、カーテン、ふたつのソファ、その間のテーブル、かすかな黴の匂い、それがこの部屋にあるもののすべてらしかった。
「お前、喋れるんだろうな?」
男の肩口から僕の顔へ拳が閃き、轟きが雷光を追うようにして声が降ってきた。彼はソファの背に裏側から腰掛け、僕を見下ろした。顔の角度が変わり、何の感情的起伏も読み取れない顔が半分だけ陽に照らされた。
「何も難しいことは訊いてない。俺はお前が、同じクラスの生徒を殴ったり蹴ったりして、怪我をさせた理由が知りたいだけ」
男は煙草に火をつけ、退屈そうに吸った。男の吐いた煙は、閉め切られた部屋の天井に忽ち澱んだ。男の靴が僕の腹に沈み込んだ時、その煙も少し揺れ、僕は腹を押さえてうずくまった。
「困るんだよな、一応担任だから」
僕は彼が先ほどから言っていることについて思い出そうとした。今日の午前中、同じクラスの生徒を僕が殴り、その生徒は怪我をして保健室で休んでいたらしい。……そんなことは僕の知らないことだった。そして自分が午前中、何をしていたか順番に考えた。いつも通り学校に来て、図書室で本を読み、紘一に呼ばれて教室に行った。入るなり紘一が、背の低い、丸い顔をした小肥りの生徒を殴り始めた。紘一に理由を訊くと、気に入らない、と答えた。丸顔の彼はしばらく、歯を食いしばって痛みに耐えていた。
そしてある瞬間彼は、どこからか取り出した鉛筆を紘一に突き立てようとした。紘一は突然牙を剝いた彼に反応できていなかったが、それはちょうど紘一が大きな体を横にずらした動きと重なり(おそらく、より都合のいい角度へ移ろうとしたのだろう)、鉛筆は隣に立っていた僕の太腿に刺さった。その時僕は、腿のその一点に小さな火が灯り、そこから温かい熱が全身に伝わっていくのを感じた。……それからのことは覚えていない。次の記憶は、校舎内の使われていない階段で、祥平と一緒に寝そべっているところから始まっていた。その余白には、この教師が関心を持っている出来事がぴったりと収まるのかもしれなかった。
「そろそろ答えてくれるかな」
彼は吸い終わった煙草を灰皿に擦りつけているところだった。「なんで?」と彼は続けた。
「分かりません」
と僕は答えた。沈黙の後、彼の口許に初めて感情らしきものが兆して、微笑の形をとった。彼の足が僕の脛を打ち、僕は片膝をついた。
「やっと喋ったと思ったらこれか。なるほどな」
彼の笑みはまだ去らなかった。
「よし。もう理由はいい。「先生、もう他の生徒を殴りません」と言え」
「先生、もう他の生徒を殴りません」
「もう一度」
「先生、もう他の生徒を殴りません」
「具体性が足りないな。俺とお前が殴った生徒の名前を入れてもう一度」
僕はなぜ彼を殴ったのだろう。それは僕のほかに誰も知らないことというより、むしろ僕だけが知らないことだった。出来事の実際の経緯を知っている人たちに囲まれていながら、僕に分かるのはその始まりと帰結だけだった。地を占めていく影が自分のつまさきに達して、雨雲が空を覆うまでに育っていると悟ったが早いか、既に全身が濡れていた。その時には何もかも遅かった。僕にはいつからか、時々こういうことが起こるようになった。その度、答えることができないままに、有形無形の問いが僕の周りに積み上がっていくのを眺めるしかなかった。なぜ、なぜ、なぜ。彼らは怒ったり悲しんだりし、口調や身振りも様々に、それぞれの仕方で答えを得ようとした。彼らの感情や声の、そこにその時にしか存在しない瞬きの結晶は美しかった。それらが答えを得ることはなかったが、それでも、実を結ばない花が美しいことに何の疑いも生まれるわけでもない。
「お前、あいつと俺の名前も覚えてないのか」
教師は心底愉快そうに声を上げて笑っていた。彼の拳や足が僕に向かって降り注ぎ、その歓喜を伝えた。遥か上空の、その細かい陰影の襞に辛うじて窺えるか窺えないかの雨雲の感情を、雷雨が大気を貫いて地表に叩きつけるように。ひとつひとつの打撃の花が僕の周りで咲いては消える音を、僕はじっと聴いていた。それを聞き逃すべきではないと感じた。
「そうだよな、名前なんてどうでもいいよな」
彼は笑い続けた。
お前、血が通っているとは思えないな。彼はそう言った。
3
教室には誰もいなかった。後ろにある木の棚に、ランドセルや他の荷物が残されていた。
「一時間目、体育だっけ?」
「知らない」
紘一はずかずかと棚へ近づいていった。生徒の荷物が収められた棚の上には、積まれた本や水槽がある。それらに挟まれた真ん中に、つやつやと光沢を放つ鞄と金属バットが、博物館に展示された刀のように鈍く光っていた。放課後に野球をやるつもりの生徒たちが、ここに道具を置いているのだろう。紘一はバットを手に取って素振りを始めた。
「何に使うんだよ」
「決まってるじゃん」
「何が」
紘一は花壇を後にした時から、何か名案を得たような気色でいた。その上機嫌は、天気が崩れる前のような、不穏な静寂を孕んでいた。あるいは人知れず山を下りてくる獣のような。
「こういうのは、バランスをとったほうがいいって先生が言ってた」
「はあ?」
「犬を殺すんだよ」
紘一はバットの握り心地を確かめながら言った。僕は驚いたが、一方で紘一の思いつきそうなことだと納得した。祥平は黙っていた。
「宏明、悔しいかって訊いたら頷いてたし」
「だからってあいつの犬を殺すのか?」
「そうだよ。バランスだから」
バランス。もう一匹犬を殺して、それで何の均衡が保てるというのだろうか。ふたつめの血溜まりを作って、そこに冷たい獣の亡骸を横たえて。宏明が悔しさに震えていたからといって、そんなことは彼の本意であるはずもなかった。それだというのに、これ持っときなよ、と言ってもう一本のバットを差し出してきた紘一の瞳を不意に覗いた時、普段と何も変わりなく友達を見つめる、親しげでそっけなく濡れた黒い双つ窓を透かし見た時、それは動かしがたい成り行きで、すでに決定されたことだと僕は知った。その目はその事実に、取り消しのきかない力に満ちていた。
僕はバットを受け取った。
4
僕が通ったことのない道を、先を行く二人は慣れた様子で進んでいった。たくさんの住宅が並んでいるその間を歩く。何も不自然なところのない通学路の角を何度か曲がると、二人は塀のある家の前で立ち止まった。門をなす鉄柵の向こう側から、庭の隅に立った大きな犬がけたたましく吼えてきた。
「ここだよ」
「叫びが起きてくる前に済ませよう」
二人は塀を乗り越えて中へと入った。僕たちには誤算があり、犬は傍の犬小屋に、鎖で繋がれてはいなかった。彼は僕の顔を目がけて飛びかかり、僕は左腕で防ぐのがやっとで、背中から地面に倒れ、彼の歯は僕の左腕に深々と埋まって骨を軋ませた。右手で彼の顔を何度も殴りつけたものの、彼はいっこうに離れなかった。それでも、紘一のバットが彼の頭を横薙ぎに捉えると彼は転がっていった。紘一はまだ向かってくる彼に向かって、幾度度もバットを振り下ろしていた。僕と祥平は二人でそれを見ていた。何かができるとも思えなかった。彼の吼える声は、次第に力を失っていった。僕はぼんやりと、いつだったか担任の教師に言われた言葉を思い出していた。お前、血が通っているとは思えないな。その乾いた響きが耳に蘇るのを感じながら、僕は後ろを振り返った。何か他のものを見ようと思った。
家の玄関は開け放たれ、男が立っていた。手に木材のようなものを持ち、僕たち三人と犬を見つめていた。彼はとても静かだった。僕は祥平に声をかけた。
「なあ、これが叫び?」
先生、今ここに来てみませんか。
木材が僕の脇腹を打ち、僕は塀に叩きつけられた。一人だけ何も持っていない祥平が叫びに殴り掛かり、殴り返されて倒れ込んだ。叫びは身を翻し、僕に向かって木材を振り下ろした。僕は横倒しに構えた金属バットでそれを受け止めた。両端を握り支えた手からは、いつか過ごした夏の日のような一時の灼熱が総身を駆け抜け、眠りの限りを覚ましてまわった。
その時、空の器に突然水が満ちるように、周囲の全てが自分と一体となったと感じた。自分の心臓から不慥かな四肢の指先まで、温かい血が洽く滾っていることを思い出した。そして結局のところその血は、この世界のどこまでも隈なく届いて息づいているに違いなかった。僕は叫びの脛を蹴り、腰にバットを打ちつけた。それからお互いに殴り合った。幾度でも飽かず繰り返して。塀に飛び散った自分の血が横目に見えた。
先生。今ここへ来れば、僕の体に血が流れているか分かります。
自分が後戻りのできない場所にいることが、僕には分かった。これが終わったら、何も元には戻らない。あらゆることは手遅れだった。見知った誰かの声が聞こえる。なぜ、なぜ、なぜ。その問いには今しか答えられない。ここに来て、と僕は思った。
血と声 早稲田暴力会 @wasebou
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