第9話

部屋に戻ると、あすかの姿はなかった。

 やっぱり気のせいだったんだ、と思ったらホッとした。

 鏡をポーチから取り出してのぞきこみ、あたしは目が腫れていることを思い出した。どうしよう、と思ったらまたさらに落ち込んだ。

 こんな顔でタクミになんか会いたくない。

 しばらく自分の顔とにらめっこしながら、ない知恵をフル活動させると、あたしの頭に一つだけ方法がうかんだ。

「アイプチなら、どうにかなるんじゃない?」

 あたしはギョッとして後ろを振り向いた。

 そこにはさっきまでいなかったあすかの姿があった。

「使ってみたら?」

 ニヤニヤしながら、あすかは言った。

 あたしはしばらく、あすかの出現のショックから立ち直れなかったけれど、すぐに自分を取り戻して、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせながら、キッとあすかを睨んであすかとゆっくり距離をとった。

「・・警察よびますよ」

 あたしは恐る恐るそう言いながら、携帯を手に取った。

 そんなあたしをあすかは最初、キョトンとしたような顔で見ていたけれど、すぐに笑いながら、

「どうぞ?」

と言った。

 予想外の答えに、どうしていいかわからなくなったあたしは、しばらくあすかを睨んでいた。

「・・・でていって」

「別に、誰を呼んでもかまわないもん。あすかは幽霊だから、誰にもみえないし」

「・・・幽霊なんてあたしは信じない」

 あすかはそれでも笑いながら、

「信じなくてもいいけれど、そろそろ準備しないと、学校遅れちゃうよ」

 あたしはあすかを見ながら、手に持っていた携帯で時間を確認した。たしかにあすかの言った通り、そろそろ急がないとまずい時間になっていた。

 あたしはまたあすかを睨むと、あからさまにあすかを避けて、机の引き出しを開けて手を奥までつっこんで、一度もつかったことのないアイプチを探した。少し前に、何故だか理由はわからないけれど、友達の間でアイプチがはやってノリで買ったものだった。

「・・そこから動かないで」

 と、あすかにむかって言うと、あすかは何も言わずに首をすくめた。

 しばらく、あたしはあすかの様子をうかがっていたけれど、

「何もしないもん」

と、あすかが言ったので、とりあえず、あたしは支度にとりかかった。

 結局、何故かあたしは、お母さんを大声で呼ぶことも、警察を呼ぶ勇気もなくて、さらにあすかが自信満々に言った言葉が引っかかっていて、何もできなかった。

 だけど、鏡をもう一度きちんと見える位置にセットした時、後ろにいるあすかの姿もきちんと見えるように置いた。

 そこはぬかりなくしたつもりだったのに、肝心のあすかの姿は鏡には映らなかった。

 変だな、と思いながら、あすかの方を振り向いて位置を確認してもう一度鏡をあわせてみるけれど、何度やっても決してあすかは鏡に映らなかった。

 後ろに確実にいるあすかが映らない。

 あたしは急に怖くなり、恐ろしくなって、唖然としてあすかをふりかえった。

 そんなあたしの異変に気づいたのか、あすかはいたずらっ子のように笑いながら言った。

「・・・鏡にうつってないこと?」

 ニヤニヤ笑いを浮かべながら言うあすかを、あたしはただただ呆然と見つめた。悲鳴をだすことも、逃げ出すことも忘れて。

「だって、あすかは幽霊だって言ったじゃん」

信じてくれた?と言いながら、首をあすかは可愛らしくかしげた。

あたしは何を言うべきなのか、何をしたらいいのかまったくわからず、その答えを求めるようにあすかを見つめた。

あすかはそんなあたしの様子にクスクス笑って、

「りん、本当に早くしないと遅刻しちゃうよ」

と言った。

 あたしはその言葉に我に返って、時計を見ると、冗談抜きで本当にいそがないと厳しい時間になっていた。

「やばい」

 アイプチをいそいでしようとするけれど、初めてするうえに、不器用なあたしには難しくって、苦戦をしいられた。

「りん、できるの?アイプチ」

 ニヤニヤしながらあたしのそばに近寄ってきたあすかと、その分の距離をとって、

「・・・ちょっとだまってて」

と、あたしは無愛想にボソッと言った。

「心配してあげたのに・・・」

 そうブツブツ言いながら、あすかはあたしから離れた。

 あすかの事はひとまず休戦することにして、あすかの事を考えられる余裕が今のあたしにはないだけだけれど、どうにかアイプチと格闘した結果、そんなに上手くはいかなかったがなんとか形にはなった。

「できた・・・」

 そう達成感にひたる時間なんかなくて、あたしは急いで髪を整え、メイクも軽くして、カバンにとりあえずそこらへんにあるものをひっつかんで放り込むと、ちょっと小走りで部屋をでようとした。

 ドアまできて、あすかの事を思い出して、部屋の中をフワフワと漂っているあすかをあたしは見た。

 心なしか、あすかの体がなんとなく透けて見えた。だけど、気づかなかったふりをすることにしよう。

 あたしは幽霊なんか信じない。

 たとえ、鏡に映らなくても、実体がなく、体が透けていたとしても・・・。

 あたしはいそいで自分の考えを振り払った。

 あたしの視線に気づいたあすかは、スーッとあたしに寄ってきて、顔をのぞきこんだ。

「まあ・・うまくできたほうじゃない?」

と、ニカッと笑いながら偉そうにそう言った。

「・・・あんまり嬉しくないんですけど」

 ボソッとあたしは警戒しながら言ったけれど、そんなあたしの言葉なんてあすかは見事に無視した。

「よし!りんの準備もできたことだし、学校に行きましょう!」

「はあ?」

「だって、りんの事が心配なんだもん」

 意味がわからないことを、何故こう、そのことがさも当たり前のように言うのだろうか。

 あたしは開いた口がふさがらなかった。

「・・何言ってるの?意味わかんない」

「そう?でも、あすかはりんから離れられないからね」

 もう、あたしは相手にするのをやめた。

 つきあいきれない。

 あたしは何も言わないで、あすかを非難するようにチラッと見てから、あすかを残して、ドアをバタンと大きな音を立てて閉めた。

「ちょっと!おいていくなんてひどい!」

 部屋をでてすぐ、あすかはあたしに追いついてそう言った。

 あたしはイライラしていたので無視した。

「もう、ひどい!」

 あすかはあたしの後ろで、文句をわめきながらそれでもついてきた。

 あたしは、イライラがだんだんつのってきて、そのイライラは靴をはいていた時に爆発した。

「うるさい!」

 時間が一瞬止まった気がした。

 台所から、何事かとお母さんが出てきた。

「朝からなんなの?何かあったの?」

 あたしはキョトンとしているあすかを睨みつけながら、

「・・・はやく警察呼んで」

と、お母さんに言った。

「何したの?」

「・・・この人、どうやってはいったか知らないけど、勝手にあたしの部屋に入ってたの」

「はあ?」

「・・だから、この人が勝手にあたしの部屋に入ってたの!」

「だから、この人って言われても、誰なの?」

 お母さんは困惑しながらそう言った。

「そこにいるじゃん!」

 あたしがあすかの方を指差しても、お母さんはさらに困った顔をした。

「・・・もしかして・・・見えないの?」

 今度はあたしが困惑する番だった。

 あたしにしか見えていない・・・

 ハッとあすかを見ると、あすかは笑顔で言った。

「だから、あすかは幽霊だって言ってるじゃない。信じてくれた?」

 あたしは何も言えなくなった。

 急に体の力が抜けてゆく。

「ちょっと、りん、あなた大丈夫?目もさっき腫れてるみたいだったけど、何かあったの?」

「・・・ううん」

 出た声はさきほどと違って、弱々しかった。

「・・・それならいいんだけど・・・。ほら、バスきちゃうわよ。急いで行きなさい」

 お母さんはあたしの方をまだ心配そうな顔をして見ていた。

 あたしはぼんやりしたまま、玄関を開けて家を出た。

 あすかはクスクス笑って、

「もう、あすかの事信じてくれなきゃね」

と、あたしにむかって言った。

 あたしはその言葉に、あすかを振り返って見たあと、駆け出した。

「りん、待って!どんなに逃げたって無理なんだよ!」

 どんな走っても、あすかの声はあたしの後にピタリとついてくる。

 それでも、あたしは振り返らずに走った。

「あすかは、りんから離れられないの。りんにとりついたんだもん!」

 あすかの言葉に、足が止まる。

 それは、頭を硬いもので強く殴られたようなすさまじい衝撃だった。

「とりついたってどういう事!?」

 あすかのその衝撃的な言葉に、ついつい大きな声がでてしまって、犬を連れたおばさんが不審な目でジロジロとあたしを見た。

 はたから見ればあたしが独り言を言っているようにしか見えなくて、きっと危ないやつだと思われたので、あたしはおばさんの突き刺すような視線を避けながら、あすかがゴチャゴチャと何かを言っていたけれど、あたしは何も答えず足を早めた。

 それから、人通りが多くなってきたので、あたしはさっきの言葉をもう一度あすかにどういうことなのか説明してほしかったけれど、一旦、その事について考えるのはやめることにした。

 こんなに朝から疲れるのは初めてだ。

 バスに座ると、どっと疲れが出た。

 あすかは横で独り言なのか、あたしに話しかけているのか、あの服かわいい、とか、あのおばさんの化粧濃い、とか、どうでもいいことを色々ブツブツ言っていた。さっきも、バスを待っている間、並んでいる人を観察して何やら言っていたし、風景を見ながら騒いでいた。

 あたしはあまりにもうるさく感じたので、あすかに気づかれないように、ヘッドホンをして音楽を音量を高めにして聞いた。

 すぐに、自分だけ違う世界に入ったみたいな感覚になって、窓を流れる景色を追いかけた。

 音楽にひたっていると、少しだけ、心が安らいだ気がした。

 だけど、やっぱりこうやって、一人の世界に入ってしまうとタクミの事を思い出してしまう。気をまぎらわすことが無い分、よけいにタクミの事を考えてしまう。

 心がやすらいだのは一瞬で、さっきよりもなんだか疲れが出た気がする。

 これからタクミに会って、あたしはどんな顔をしたらいいのだろう。何て言ったらいいのだろう。タクミはあたしに、どんな顔をして、何て言うのだろう。

 そんな心配や不安が、次から次へと溢れてきて、とても苦しくなった。

 本当にタクミになんか会いたくない。

 作るのは本当に難しくって、コツコツ積み上げてきた『友達』というものを壊すのは、なんていとも簡単なことだったのだろうか。でも、もう一度積み上げるには遅くて、粉々になった破片は、風に吹かれてサラサラと、どこかに飛んでいってしまった。もし、もう一度出来たとしても、それは前とは似ても似つかないまったく違うもの。それを覚悟して、壊れてもいいからと、もしかしたらあたしが望んだ新しい形になるかもしれないという、かすかな期待を抱えながら、自分で選んだ道なのに、後悔ばかりが残るんだ。

 あたしがわがままなのはわかってる。

 だけど、つらいんだよ。

 無意識にカバンを持つ手に力が入っていて、少しその手が汗ばんでいて、ちょっと気持ち悪かった。

 ため息にならないため息をついて、あたし達はバスをおりた。

 学校につくまで、あたしはヘッドホンをはずさなかった。

 ヘッドホンをしていることに気づいたあすかが、文句を言って頬を膨らませていたけれど、あたしは気にしなかった。

 あたしはそれどころじゃなかった。

 学校に着いた時、本当にこれでもか、というくらい生きてきた中で一番最悪な気分だった。今すぐにでも逃げ出したかったけれど、足は確実にゆっくりと教室にむかって歩いてゆく。

 だんだん胸が苦しくなってゆく。

「りん、大丈夫?」

 あたしが下駄箱でヘッドホンをとると、文句をあたしに浴びせていたあすかだったが、教室に近付くにつれて顔が強張り泣きそうになるあたしに気づいてそう言った。

「・・・うん、大丈夫」

 あたしは小さい声で、あすかに答えるというよりも、自分に言い聞かせるようにそう言った。

 なんだか今は、あすかが、誰かが近くにいてくれることが心強かった。

「一人じゃないからね。あすかもいるからね」

 あすかがそう呟いた。

 あたしは本当に臆病で、弱虫で、意気地なしだから、この教室のドアを開けるのが怖くて怖くてしょうがないんだ。

 タクミに会うことが、今は辛くてしょうがない。

 いつもだったら、昨日までのあたしは、このドアを開けることが楽しみで、一日タクミとたくさん喋れるように、なんて思いながら開けていたこともあった。たった一日で、あんなに薄っぺらで軽かったドアが、今はとても大きくて頑丈な、ドアというよりは壁に見える。

 それはあたしとタクミの間に出来た壁に見える。

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