第8話

気づいた時にはすでに朝だった。黄色いカーテンから、あたたかくて、さわやかな光が淡くもれていた。

 たぶん、お母さんがかけてくれたと思われる毛布が、起き上がったあたしの体からハラリと落ちた。

 なんだか目に何かがのっかっているような違和感を感じ、さらにいつもよりも目が開かなくて、どうしてだろう、と考えた瞬間、お腹がグーッとなって、昨日泣いた事と、その理由を思い出して、ズシリと重苦しい音をたてながら心に憂鬱が落ちてきた。

 やる気が一気にうせる。これ以上起きたくなくて、学校にも行きたくなかった。

 フーッとため息がもれる。

 朝一番からため息なんかつきたくなかったけれど、訪れた現実は、あたしには苦痛以外の何ものでもなくて、自然に出てしまうのだからしょうがない。

 時間が止まらないかな、なんてアホらしいことをぼんやり考えながら、手をめいいっぱい伸ばしてとった携帯に表示された時刻は、早起きだといっても過言ではない時間だった。

「うわあ・・」

 思わずでた言葉と一緒に、本日二回目のため息をはきだした。

 こんな短時間にため息を二回もつくなんて、人生で初かもしれない、と思ったら、なんとなくちょっと笑えた。

 もう一回寝てみようかな、と思って、どうにかねばって頑張ってみたけれど、体はあたしの意志をあきらかに無視して、目はすでにさえわたり、しばらくゴロゴロしてみたけれど、まったく寝れず結局諦めた。

 もう起きるしか道はない気がして、学校に行けってことか、となかばヤケクソになって、少しまだかかっていた毛布をけっとばし、ダラダラしながら顔を洗いに下へ降りた。

 すでにお父さんもお母さんも起きていたけれど、リビングに通じるドアはあけずに、そっと足をしのばせながら洗面所にむかった。

 別に会ったって何のことはないけれど、なんとなく今は誰にも会いたくなかったし、腫れている目をみられたくなかった。

 蛇口をひねって流れてくる水が儚くて、いつもよりもその勢いは弱くみえた。

 水に触れると、それは予想以上にぬるくて、手や顔にいつもよりもまとわりついていて不快だった。

 すでに遅いとは思ったけれど、特に目を集中的にぬらして腫れをひこうと思ったけれど、結局腫れたままだった。

 水がしたたったままの鏡に映ったその顔は、自分で見てもひどい顔をしていて、それを見てまたなんだか悲しくなった。

 タクミの世界に入れていたら、もっと輝いた顔をしていたのだろうか。幸せそうな顔をしていたのだろうか。

 もしも、なんて事はこの世界には存在しないけれど、昨日の出来事一つでここまで人は表情を変えられるのかと思うと、また泣きたくなった。

 できれば今日、あたしはこの鏡の中に、幸せそうに笑う自分の顔を見たかった。もう叶わないことではあったけれど、そう思わずにはいられない。

 やっぱり、目が腫れたまま学校に行くしかない、と覚悟しても、この顔をタクミに見られるのかと思うと、気分はもっと重くなった。

 タクミに昨日あたしが泣いたことを悟られたくなかったし、自分のせいで泣かせてしまったと、変な同情をされたりしたら、あたしは何よりも辛いし、負けたみたいで悔しい。

 変なハンパな優しさを、あたしは求めているわけじゃない。

 ぼんやりと鏡を見ていたら、洗面所のドアが開いて、あたしは慌ててタオルで顔をゴシゴシとふいた。

「りん、起きてたのか」

 お父さんの声が聞こえた。

「うん」

 と、あたしは出来るだけ顔を見せないように、タオルから顔を離して答えた。

「今日はずいぶん早いな」

 機嫌が良いのか、お父さんは笑顔で元気に言った。

 あたしといえば、そんなお父さんとは反対で、笑顔なんて頑張っても作れず、元気な声なんて出す気すらおきず、

「もう、あたし顔洗ったから使っていいよ」

と、言いながら、急いでお父さんの横をうつむきがちに通りすぎた。

 そのままあたしは一度も後ろを振り向かず、小走りで自分の部屋にかけこんだ。心の中でお父さんに、冷たくしてごめん、と謝りながら。

 部屋に戻るとなんだかホッとしたけれど、時計を見ると、刻一刻と学校に行かなければならない時間に近付いていて、とりあえず制服を出してはみたけれど、それにどうしても腕を通すことが出来なかった。

 ため息ばかりがあたしの口からもれてくる。

「幸せがにげるよ」

 その時、後ろから突然声が聞こえて、あたしは勢いよく振り返った。

 そこにはあすかがたっていて、

「おはようさん」

なんてのんきに笑いながら手を振っていた。

 あたしは、なんで知らない人があたしの部屋にいるのだろう、と何度も頭の中で自問自答をくりかえしながら、ぼんやりあすかを見つめていた。

 口を開けたまま、何もいわないでボケッとしているあたしを、だんだんあすかは不審に思いはじめたのか、しだいに笑顔からしかめつらになってゆく。

「もしかして、あすかのこと忘れたなんて言わないよね?りんは、あすかの事覚えているもんね?」

 確かめるように聞いてきたあすかと、しばらくの間にらめっこが続いて、あたしの頭は完全に、あまりの突然のあすかの出現に、考える能力を失って、何も思い出せないあたしの様子にしびれを切らしたのはあすかだった。

「もう!何か言ってよ!りんったら、最悪!何であすかの事忘れるの?昨日会ったばかりじゃない!」

 あすかは幽霊だけど、とその後にボソッと付け足した。

 昨日・・・会ったかな?見たことがあるような気がするけど・・・

 あたしはあすかをじっと見ながら、正常に働かない頭で、一生懸命昨日の嫌な思い出を掻き分けながら、あすかと会った記憶を探した。

 タクミの後ろ姿を見送ってからの記憶を、あたしはあまり鮮明には覚えていなかった。ただ、『あすか』という名前をあたしはどこかで聞いたような気がして、どうにかたどり着いたのは、昨日見た、妙にリアルな夢だった・

「・・・昨日、夢で見た!」

 あたしはついつい大きな声をだしてしまった。そして、家の中だったと思い、しまったと急いで口に手をあてて、下の様子を少しうかがったけれど、何もしなかったので、もう一度今度は声を低くしてあすかにむかって言った。

「昨日、夢に出てきた・・・ってことは、これもまだ夢の中?」

「夢なんかじゃないもん!ちゃんとした現実なんだから!」

「でも・・・やっぱりまだ、あたし、夢を見てるんだ・・」

「もう!りん、しっかりして!ほっぺでもつねってみてよ。ぜったい痛いんだから!」

 そのあすかの言葉に、あたしは自分の頬をつねってみた。

「・・・あんまり痛くない・・」

「ほんとに何言ってるの!」

 あすかは呆れたような目をあたしに向けた。

「あすかは幽霊だけど、今りんの目の前にいるのは真実で、現実なの!」

 小さい子に言い聞かせるように、あすかは深いため息をはきだして、ゆっくりと一つ一つの言葉を確かめるようにそう言った。

「わかった?」

 そうあすかがあたしの目を覗き込むようにして言った時、お母さんがあたしを呼ぶ声が下から聞こえた。

 あたしはハッと我に返り、「今行く!」と叫ぶと、あすかなんていないみたいに、急いで制服に着替えた。

 全身鏡に映った制服の自分を見たとき、また気分が重くなって、もう逃げられないな、なんて思ったら、軽いため息がでた。

 そんなあたしの姿をじっと見ていたあすかは、あたしが無言で部屋を出て行こうとしたとき、ベーッと舌をだしながら、

「あすかは、夢なんかじゃないからね!」

と、少しすねたようにそう言った。

 あたしはそんなあすかをチラッと見た後、部屋を後にした。

「お母さん、ちょっとほっぺたつねってくれない?」

 台所に入るなり、あたしは洗い物をしているお母さんにそう言った。

「いきなりなんなの?」

 と、不審な目で見られたけれど、誰でもそんなことをいきなり言われたら、お母さんと同じような反応をすると思う。

「いいから、お願い」

 しばらくあたしの事を不思議そうな目で見て、お母さんはぬれた手をタオルでふいてから、あたしの頬をいきなりつねった。

「いた!」

 あたしはその痛さにびっくりして、大きな声をだしてしまったけれど、お母さんは意味がわからない、と言いたげな顔で、あたしをあきれたような目で見つめた。

「当たり前でしょう。つねったんだもの」

「ありがとう」

 あたしはそう言うと台所を出た。

 やっぱりこれは夢じゃないんだ、夢にしてはリアルすぎだもん、なんて思いながら、あたしはテレビから流れるアナウンサーの笑い声をBGMに、すでに用意されていたパンをかじる。

 じゃあ、これが夢じゃないなら、あすかは何なの?

 突然、そんな事を思った。動きが少し鈍くなる。

 そういえばさっきも、昨日も、幽霊って言っていたような気がする・・・

 あたしの動きが止まる。

 ゾワリと背中に寒気が走った。

 いやいや、幽霊なはずがないじゃない。

 だったら、どうしてあたしの部屋にいるの?

 鳥肌がたって、あたしは怖くなった。

 後でお母さんに言おう。ただのきのせいかもしれないし、もしかしたら寝ぼけていたのかもしれない。

 あたしは勝手に自分をそう納得させて、朝ごはんを食べた。でも、鳥肌はなかなか消えてくれなかった。

 でも・・・夢でもよかったのにな。

 今度はタクミの事を思い出した。タクミの事を考えると苦しくなった。こんなに学校に行きたくないなんて初めてで、その理由が今まであたしが学校に行く理由になっていたタクミのせいだと思うと、言葉というのは本当に怖いと思う。

 けど、『友達』という関係を叩き壊したのは、誰でもなくこのあたし自身だから、何のせいにも出来なくて、その事がさらにあたしを苦しめる。

 誰かが、何もしないよりは何かをして後悔した方がいい、なんて言っていたけれど、あたしは今、何もしなかったほうがよかったと、友達のままでいたほうがよかったと思っている。

 なんて自分勝手なんだろう。

 ないものねだりなのはわかっている。友達のままでいたらいたで、ほんの少しの期待にかけて気持ちを伝えたいと望むだろうし、気持ちを伝えたら伝えたで、前の方がいいと思う。ただのないものねだり。

 でも、ただ気持ちを素直に伝えただけなのに、そうしてこんなに悲しくて、苦しくなるのだろう。

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