第7話
家に着き、台所で料理をつくっているお母さんの背中に、ろくにただいま、というあいさつもせず、なんだか妙にだるい体と、あきらかに明日筋肉痛になる気配がする足を引きずって、階段を上った。
いつもより傾斜が急な気がして、少しイライラした。
力まかせにドアを閉め、部屋に入った瞬間、一気に涙が込み上げてきて、あたしの視界には何も映らなくなった。
カバンを八つ当たりぎみに放り投げ、ぬぐえども、ぬぐえども、流れてくる涙に逆らいながら、すでに涙でビショビショになった手で制服をぬいだ。
もう汚れようが、どうなろうが、どうでもよくて、目的と希望を失ったあたしの前に繫がる道など一本も見えなかった。
とめどなく流れてくる涙も、あたしの想いを消すことは出来ず、逆に泣けば泣くほど、もしタクミと付き合えていたら、なんていう儚い決して叶わない願望と、後悔ばかりがあたしを支配する。
明日、あたしはどうすればいいのだろう。
上手に笑えるかな、上手にしゃべれるかな、上手に友達になりきれるかな、そんな不安ばかりを考えてしまう。
できれば笑いたくなんかない。できれば話たくなんかない。できれば友達なんてやりたくない。
あたしはそんなに器用じゃない。
どんなに泣いてもスッキリすることはなく、押し殺していても、もれてくるかすかな嗚咽が、一人だけのシーンと静まり返った部屋に響く。
すると突然、
「失恋したの?」
と、ベッドにうつぶせになり泣いていたあたしの耳元で、風がサッと通り抜けてゆくように、その声はささやいた。
あたしはハッとして顔をあげた。
けれど、一通り部屋中を見渡しても、やっぱり部屋にはあたし一人だけで、誰かがいる気配はなかった。
「気のせいか・・・」
自分に言い聞かせるように、あたしはつぶやいた。
そう言いながらも、あまりにはっきり聞こえたその声に、あたしはなんだか怖くなって、恐る恐る体を起こして、ベッドに腰掛けた。
変な汗がジワリと背中と手のひらに広がった。
「無視しないでよ」
あたしの後ろで、今度はその声がささやいた。
首筋にザワリと冷たさが走って、あたしは、ワッと小さく叫んで、びっくりして立ち上がり、サッと後ろを振り向いたけれど、そこには誰もいなかった。
もう気のせいだとは思えなくて、今度こそ本当に怖くなって、胸の動悸は速くなり、ドクンドクンと大きく響く。変な、ねっとりとした汗がさっきよりも体中にジワリと広がっていく。
逃げなくちゃ!と思うのに、体に力が入らなくて、叫ばなきゃ!と思うのに、のどがカラカラに渇いて、声なんか出なかった。
静まり返った部屋の中が、余計に怖さを倍増させる。
「そんなに怖い顔しないで」
フフッと笑いながら、その声は今度もあたしのすぐそばでささやいた。
ビクンとあたしはびっくりして、ヒッ!っという短い悲鳴が口からもれた。
呼吸が速くなり、あたしはゆっくり周りを見回す。変わったところなんて何一つない。
寒くないのに、体中がガクガクと震え始めて、頭がクラクラしてきた。
あたしはどうにか落ち着こうと、ゆっくり深呼吸する。
ねっとりとした汗が、体中にまとわりついて気持ち悪かった。
さっきまであんなに大泣きしていたのに、涙はすでに止まっていて、今度は怖くて涙が少しこみあげてきた。
「まだ見えないの?」
そんなあたしのことを見ながら楽しんでいる様な口ぶりで、その声はまたあたしの後ろではっきりとささやいた。
恐怖で心が張り裂けそうだった。
失神寸前で、もうあたしは限界だった。
今度こそ、あたしは、あたし以外の誰かの気配を確実に後ろから感じた。
後ろに誰かいる。
この恐怖をぴったりと表現できる言葉がない。
そんな恐怖の中、人というものは、心と体は別物なのだろうか、と真剣に考えてしまうほど、ふりむくな!と叫ぶ心を無視して、あたしはゆっくりと後ろを振り向いた。
けれど、そこにはさっきまで確かに気配があったのに誰もいなかった。
その瞬間、何ともいえない恐怖とパニックがあたしを支配して、頭がさっきよりもガンガンと響いて、体中の血がサッと抜けたようになり、今度こそあたしは気絶するんだと確信して、瞬きをした一瞬、あたしの視界に、さっきまでは確かにいなかった女の子が、あたしにむかってにこやかに手をふっていた。
それを見た瞬間、今までためこんでいた恐怖が、一気に悲鳴となってあたしの口から出る前に、気絶して倒れる前に、その女の子はあたしにむかって、
「ちょっとお、あんまり大きな声、出さないでよね。あすかは別に、怪しいものじゃないんだから」
と、そう言いながら、いつの間にかあたしの目の前に近づいていた。
あたしはそれに驚いて、あまりの衝撃に、出てくるはずだった悲鳴を飲み込んでしまった。
そんなあたしを見ながら、自分の事を『あすか』と言った少女は、いたずらが成功した子供のように、無邪気にクスクス笑っていた。
「・・・な・・なんで・・・」
悲鳴のかわりにとっさにでてきた、しぼりだしたような言葉は、かすれていたうえに、何が言いたいのか、まったく意味を持たなかった。
「なんで・・って何が?」
面白そうに少女は笑いながら、あたしの顔をのぞきこんだ。
あたしは突然、目の前にその少女の顔が近づいてきて、ギョッとして、一歩後ろにさがった。ちょうどそこにはクッションがおいてあり、少しつまずいた。
けれど、あたしはそんな事は気にならず、あたしの目は、瞬きするのも忘れて、しっかりとその少女の顔を見つめていた。
少女はまだクスクス笑いながら、バカみたいに少女の顔を見続けるあたしにむかって、
「もしかして、立ったまま気絶してるの?」
と、言った。
あたしはゴクンと唾を飲み込んだ。その音がやけに部屋中に響いた気がした。
まだ胸の動悸はおさまらず、手にはまだベタベタした汗の感触が残っていて気持ち悪かった。頭もクラクラして、のどもカラカラで、声なんてやっぱり出そうもなかった。けれど、なんだか現実味のない夢の中にいるような、そんなフワフワした感覚の中で、あたしは必死に言葉を探して、
「・・・あな・・た・・・だれ・・・」
と、ようやくしぼり出したあたしの弱々しいその声は、続く少女の元気な声にさえぎられた。
「やっと聞いてくれた!ずーっと聞いてほしかったのに、りんったら、全然いつまでたっても聞いてくれないんだもん!」
そして、引き気味なあたしなんておかまいなしに、少女は、ズイっともっとあたしに近付いて、輝くような笑顔を浮かべて言った。
「私ね、あすかっていうの!よろしくね!」
ブイサインを前に突き出して、ニコニコしながら、あすかという少女はあたしを見た。
さっきよりも近くで、じっくり見たその目が、あまりにもキラキラとキレイに輝いていたので、あたしは少しひきこまれた。
目をパチパチさせながら、落ち着け、落ち着くんだ、と自分に言い聞かせながらあたしは何度か大きく深呼吸をした。
そのあたしの様子を、あすかは不思議そうにながめていた。
少しすると、あたしの胸の動悸もだんだん収まり、頭もだんだんはっきりしてきた。
もう一度、深く深呼吸すると、あたしは恐る恐るあすかに言った。
「・・・どうして・・・ここに・・・?」
「あすかは幽霊だもん」
あたしの言葉に、あすかはその事がさも当たり前のように、キョトンとしながらサラリととんでもない事を言った。
あたしは何も言えなかった。
人はきっと、あまりにも常識を超えた事に遭遇すると、何も思わなくなるのだとこの時知った。
そしてあたしの頭は、これは夢だ、と思うことにしたらしく、しばらくあたしはただ、あすかを見つめていた。
あすかはあすかで、どうやらあたしが何かを言ってくれるのを期待して、キラキラと目を輝かせ、その目であたしを見つめていた。
しかし、しばらく待っても何も言わないあたしを不審に思ったのか、小首をかしげて言った。
「聞いてた?ゆ・う・れ・い」
あすかははっきりと、そしてゆっくりと、『ゆうれい』という部分を強調した。
そんなあすかの目の中に、口をポカンと開けた間抜けなあたしの顔が映っているのが見えて、ハッとあたしは我にかえった。
「ゆうれい・・って・・・幽霊!?・・・なんであたし、・・あたし、霊感なんてないのに!・・・どうして・・・何で・・・」
「霊感なんて関係ないもん。あすかがりんに、見えてほしいなって思ったから見えるの」
「・・・なんで・・・あた・・しの・・・名前」
あたしはついに自分がおかしくなったんだと思った。
タクミにふられたせいで、幻覚が見えているのかもしれない。
それとも泣き疲れて、いつのまにか寝てしまって、夢を見ているのかもしれない。
そうだよ。きっとこれは夢なんだ。
さっきだってそう思ったし、これは夢なんだ。
あたしはそう思って自分を納得させた。
また騒ぎだそうとしていた胸が、深呼吸をすると少し落ち着いた。
けれど、あたしは次のあすかの言葉で、忘れかけていた現実を思い出した。
「名前だけじゃないよ。さっき失恋したのも知ってる」
ズキリと心が痛む。
そう、あたしはタクミにふられたんだ。
そう思ったら、どこにそんな量があったのかと思うほど、また涙があふれてきて、視界がにじんだ。
うつむいたあたしにあすかは気づかず、おかまいなしに続けた。
「えっと・・・たくや?・・・じゃなくて・・・えっと、タクミだ!タクミだよ!」
ね?っと確かめるようにあたしの顔をのぞきこんだあすかの笑顔がすぐにひっこんだ。
スーッとあたしから離れると、申し訳なさそうな顔をしながら、
「・・・ごめんね」
と、ポツリと言った。
その言葉が最後で、部屋の中は重苦しい空気が押し包んでやけに静かになって、あたしの鼻をすする音しか聞こえなくなった。
さっきまで、あすかの突然すぎる出現に気をとられ忘れていたくせに、きっかけがあればすぐに思い出すなんて、頭はなんて気分屋なんだ。
夢の中の事のはずなのに、タクミを想う苦しい気持ちは、妙にリアルだった。
どれぐらい時間がたったかわからないけれど、あすかがポツリと切なげで、苦しそうな声で言った。
「・・・つらいよね」
その声はもたがかかったように、遠くから聞こえた。そして、どんどん遠のいて、何か言おうとしたのに口がまったく動かなかった。
あれ?と思うと同時に、あたしの視界はだんだん狭くなり、そして何も見えなくなった。
目が泣きすぎたせいでしみたのは一瞬で、あたしは意識をてばなした。
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