第6話
授業が始まって半分くらいたったころ、あたしはタクミに、今日残って欲しい、という事を伝えていなかったことを思い出した。
早く言わなければ、たくみはすぐに部活に行ってしまう。
あたしは慌ててスマホをポケットから取り出して、今日話したい事があるから残って、というラインを送った。
少しして、前にいるタクミの背中がビクッとなった。スマホのバイブの音が小さく聞こえた。
今の授業の先生は厳しいことで有名で、授業中スマホをいじろうものならば、即没収されて一週間ぐらい返ってこない。なので、タクミは、イスに深くダラリと腰掛けていたのを、ゆっくりと姿勢をただして、ポケットからそっとスマホを取り出し、机の中で開いた。
すると、ラインを確認したのか、タクミがチラッとあたしの方を見た。そして、何かスマホをいじるとポケットに戻して、また元のダラリとした姿勢に戻った。
少しして、あたしの手の中にあるスマホが静かに振動した。教科書で隠しながらラインを開くと、『了解』とタクミから返信がきていた。あたしはそれを確認すると、慎重にポケットにしまった。
もう、後戻りはできない、そう感じた。
それでも、引き返すなら今だぞ、ぜったい後悔するぞ、とあたしの中でもう一つの声がささやいて、あたしを責める。無理やりにタクミの世界に入ろうとするあたしを、タクミが拒んだとしたら、あたしはどうしたらいいのだろう。
考えれば考えるほど怖くなって、切なくなって、なんだか泣きたくなった。
ちょっとだけ視界が歪みだした時、授業の終わりを告げるチャイムが、高らかに響きわたった。
「ありがとうございました」
だるそうだけれど、解放された喜びが現れているみんなの声が聞こえ、ガヤガヤとなった教室でぼんやりしていたあたしの机をタクミが叩いて、ハッとした。
「お前さ、授業中にラインするなよ。まじ、ビビッたじゃん」
席に座りながら、タクミは笑いながらそう言った。
「ごめん!授業中に思い出したから」
「終わってから言えよ~」
「だって、タクミ、すぐに部活いっちゃうじゃん。だから早めに言っとかないと」
「だけど、ほんとビビッた~」
「後ろから見てたら面白かったよ。びくってなってたもん」
あたしは騒ぎ続けている胸を無視して、クスクスと笑った。
「りん、最悪なんだけど。おれで面白がってる」
タクミはすこしいじけてみせた。
その姿が可愛くて、もっと笑いながら「ごめん、ごめん」とあたしは言った。
「そんなに笑うなよ。おれ、傷ついた~」
さらにいじけるタクミとは反対に、あたしは笑いをおさえることができなかった。
「そんなに笑うなら、今日の放課後どうしよっかなあ」
いじけていたさっきとは違って、今度はあたしを困らせようと、勝ち誇ったような顔でタクミはそう言った。実際、あたしは焦り、さっきまでの笑いをひっこめて、今度はあたしが困る番だった。
「それはダメ!残ってもらわないと!」
ごめんなさい、と手を合わせて謝るあたしを見ながら、悪戯な笑みを浮かべたタクミはなおも、「どうしようかなあ」と、じらしてみせた。あたしといえば、反省し続けた。
さっきまでの不適な笑いは影をひそめて、今度はあたしの好きな笑顔で、
「あはは、りんってからかいがいがあるよね」
と、タクミはそうあたしに言ったんだ。
あたしにはその笑顔は眩しすぎて、こういう時のその笑顔は反則だと思う。
「うそ、うそ。ちゃんと放課後のこります」
「ほんとね!?部活にいかないでよ」
「わかってるから」
あたしはホッと安心して、笑顔になった。
「で、その肝心の話って何なの?」
「ひみつ」
するとタクミはパッと顔を輝かせ、そのわりに声の大きさは低くして言った。
「もしかして、ついにりんに、好きな人でもできた?」
その瞬間、胸がギュッと切なくなって、苦しくしめつけられた。自分の決意の結果がわかった気がして、世界が一気に暗くなってゆく。
「どうでしょう~。放課後までのひみつ」
タクミ、あたしの好きな人はあんただよ、って今すぐ言いたかった。けれど、そんな言葉の代わりに、あたしはいつも通りに笑っていた。でも、どこか自分ではないみたいで、どっかの下手くそな女優よりも、あたしの方がよっぽど上手じゃないかと思えるほど、この時の演技は賞だってもらえるぐらい自然で、そしてうまく本当の自分を隠していた。
「あやしいな」
ニヤニヤしながらタクミはそう言って、あたしを見た。
「放課後にね」
と、あたしもタクミに負けないくらいの笑顔を浮かべてそう言った。
話はそこで先生の声で中断されたけれど、あたしに耳には先生の声も、教室のざわめきも、何も入ってこなかった。ただ、聞こえてくるのはあたしの胸の高鳴りと、わかるのは心も涙腺ももう限界だということぐらいで、あんなに追いつきたくて追いつきたくて、必死に手を伸ばし、いつも見つめていたタクミの背中を、あたしは初めて見ることができなかった。
そんなあたしの複雑な気持ちなんて知らない学級委員長の、さようなら、というとても元気な声がクラス中に響いた。
みんなの笑い声が教室から吐き出されて、バイバイ、と去っていく友達が本当にうらやましかった。あたしの気分は下へ下へと、加速しながら沈んでゆく。
一瞬の嵐のような時間が去ったのをみはからったかのように、友達と何やらゲラゲラ笑っていたタクミが、いつの間にか隣に立っていた。
「教室でいいの?」
そう聞くタクミの顔が見れなくて、それを誤魔化すように、あたしは周りを見渡して、
「う~ん、まだ結構いるね」
なんてどうでも良いことを言った。
「そうだな。じゃあ、階段のところに行くか。あそこならそんなに人も来ないじゃん」
周りを見渡すのはさすがにもう不自然なので、カバンを整理するふりをしながら、あたしは「うん」と言った。
「それじゃあ、ちょっと他のやつに、部活少し遅れるって言ってくるから、先にりん行っといて」
「ほんとごめんね。部活あるのに」
「いいの、いいの。おれだっていつもりんに話聞いてもらってるし」
そして、また後で、と言うとタクミは教室を出て行った。あたしは残っている人に聞こえないようにため息をついた。手が震えて、ペンケースにしまおうとしたペンを、二回落とした。手から滑り落ちていくペンが、コトンと少し鈍い音をたてて、床に転がった時、その姿がなんだかちっぽけで、見ていたら虚しくなった。
もう結果は見えているから、あたしの決意は行き場をなくしたように、宙ぶらりんになった。それでも、その決意を決行するすべしかあたしは知らない。でも、そこにもう、意味なんてない。けれど、こんな時でも、こんな風になっても、タクミへの想いに、可能性のない少しの期待に、しがみついている自分が醜くて、いやしく見えた。
そして、やっと準備ができて、ノロノロと歩いてあたしは階段に向かった。その足は、石でできているのではないかと思うほど重くて、一歩踏み出すたびに、ズシリと響く。一歩踏み出すたびに、あたしの世界の暗闇が深みをましてゆく。
行きたくなかった。
もう、タクミのそばにいたくなかった。
自分の中で、自分の欲しい言葉はそこにはないんだとわかっていたとしても、ほんのかすかな期待にしがみついてここまで来たあたしは、タクミの口からその言葉を聞けるだけの強さも、勇気も持っていない。だけどもう、引き返すことはできない。
どうしても階段につきたくなくても、そう思う時ほどあっという間に時間は過ぎてゆくもので、すぐに階段がある角についてしまった。
一歩手前で立ち止まって、無意味ににぎりなおしたカバンを持つ手が、汗ばんでいて、ベタベタして気持ち悪かった。
「りん、おそいから」
角をまがって階段を見ると、あたしをむかえたのはタクミの、呆れたようで、笑いを含んだ声だった。
まさかすでに、タクミがいるとは思わず、不意をつかれて、キョトンと立ちすくんでいるあたしにむかって、タクミはもう一度、おそいと言った。
その言葉に我に返って、ちょっとぎこちない笑顔を作って「はやかったね」と言った。
「りんの方が、てっきりもういるだろうって思って来たら、誰もいないし。何してたの?」
タクミはちょっと腰を浮かせて、あたしが座れる場所を作ってくれて、そこを手でポンポンとたたきながら言った。
「なんか色々準備してたらね・・・」
苦し紛れの言い訳をしながら、あたしは少しタクミと距離をとってタクミの隣に座った。
「準備って、りんいつもカバン、ペラペラじゃん」
クスクス笑いながら、「入れるものあるの?」と余計な事をつけくわえてタクミは言った。
「ひどい!女の子は色々とあるんです!」
こんな時でもおどけて、笑って、上手に演じている自分がすごいと思った。
「りんって女の子だったんだ~。知らなかった」
さっきよりもゲラゲラと笑いながら、タクミはあたしをからかった。そしてあたしはそれに対して、いつも通りのあたしを演じてみせる。怒ったように言い返して、すねてみせ、それから続いたやりとりでも、あたしは数々の名演技を披露した。
そのまま肝心の話にはまったく触れず、くだらない話でズルズルと時間は過ぎて、やっとその話になったのは、お互いのネタがつきはじめ、なんとなく喋ることが一段落して、沈黙がちょっとの間訪れてからだった。
「今さらになっちゃったけど、話って?」
最初にきりだしたのはタクミからだった。
「えっとね・・・」
気づかないふりをして無視し続けた胸の高鳴りが、急に速度をあげた。体が一気に熱くなり、なかなか言葉をだす勇気がわいてこなかった。
今だ、言うんだ、簡単だろう、ともう一人の自分が叫んでいて、けれど、もう二度と今までのように仲良くはしゃべれないかもしれない、という恐怖がそれを拒む。
伝えたい気持ちは、言葉にしないと伝わらないけれど、気持ちを言葉にして伝えることがこんなにも難しいことなんだ、とこんな時なのにしみじみ思った自分がいた。
しかし、なんだかんだ言っても、やっぱりもう、あたしのタクミに対する想いは小さな心には収まりきらず、限界だった。
「あたし、前からタクミの事好きだった」
その声は震えていたかもしれない。かすれていたかもしれない。よく思い出せないけれど、思った以上にはっきりと、サラリと言えたことに驚いた。
意外と簡単で、一瞬の事だったな、なんて思える余裕もあった。ただ、もう、タクミとの今までの関係がこの時に終わった、と確かな確信を得たんだ。
その後の沈黙が長かったのか、短かったのか、はたまた、そんな沈黙なんてなかったのか、はっきり覚えていないけれど、タクミが驚いたような、困ったような顔をしながら、
「ありがとう」
と、ボソッと言ったことは覚えている。
そして、今まで見たことがないような真面目な顔をして、伏し目がちなあたしの顔をしっかり見つめて、あたしが一番恐れていて、聞きたくなかった言葉を言った。
「・・・その気持ちは嬉しい・・。・・でも、やっぱりりんは、おれにとっては友達なんだ」
スローモーションで、タクミが言った一言一言が、あたしのすべてに流れていく。かみしめたくもないのに、ジワジワと、隅々まで、あたしの体に確実に浸透していった。
なんだか言いたいことが言えてスッキリした、というよりは、前よりモヤッとした心の中で、言わなくたってわかってたよ、なんて負け惜しみみたいにつぶやいた。
そのくせ、自分で伝えると決意したくせに、犠牲になるものも覚悟してのことなのに、タクミから直接その言葉を聞きたくなかった、と思う、わがままで、最低なあたしがいた。
「・・うん。話聞いてくれてありがとう。本当に困らせてごめんね。・・・じゃあ、それだけだから」
この場にいたくなくて、出来るなら早く消えてしまいたかった。もう、タクミのそばに、近くにいることが、苦しくて苦しくてしかたがなかった。
これで二年間の長い想いも、タクミを想った時間も、友達という関係も、すべて自分で、自分の手で、叩き壊してしまったんだと、いまさら後悔がつのって泣きたくなった。
あたしは本当に自分勝手だ。
勝手に好きになって、自分で決意したくせに、少しだけタクミを責めたくなった。ほとんど八つ当たりに近くて、こんな自分はほんとに最低だと思う。
結局、タクミの世界にはいるためのパスポートは手に入れる事はできず、輝いていた世界は色あせてゆく。
ほのかに自分から香る甘い香水の匂いも、気をつかっていたメイクも、髪型も、ただ意味のないものになってゆく気がして、虚しくなった。それを身に着けて、まとっている自分が、滑稽に見える。
あたしはさっきよりも汗ばんだ手でカバンをつかむと、立ち上がった。それが合図になったように、タクミも立ち上がって、あたしに悲しそうな、切ない目をむけて、遠慮がちにぎこちない笑顔で、
「でも、友達やめるなよ。おれ、りんとは気まずくなるのはいやだからさ。今まで通りにな」
「当たり前じゃん」
あたしは笑顔でそう言った。
それに安心したのか、タクミはいつもの笑顔を浮かべて言った。
「それじゃあ、部活行ってくる。・・・ほんと、ありがとな」
「ううん。こっちこそ本当にありがとう。・・・困らせてごめんね」
「そんなことないよ。うれしかった。・・・じゃあ」
「うん。・・・部活がんばってね」
「おう」
と、そう言いながら去ってゆくタクミを、あたしは笑顔で、元気に送り出した。でも、その背中はゆがんで見えなかった。
あたしが追いつきたいと、触れたい、と思っていた背中は、あたしを残して遠く遠くに消えていった。
タクミは今まで通りに、なんて言ったけれど、それはもう出来ない。すべてをなかった事にして、友達としてまた同じように接することは、不器用なあたしには無理だ。
あたしとタクミの間には、見えないけれど厚い壁が出来たことは確かで、それに気づかないフリをするなんて出来ない。
何よりあたしは、そんな簡単にすぐに捨てられるほど軽い気持ちで、タクミを想っていたわけじゃない。
タクミ、もう前と同じにはどんなに頑張ったって戻れないよ。だって、あたしは、タクミが好きなんだから。
明日、タクミはあたしに普段どおりに接してくるかもしれない。笑いかけてくるかもしれない。あたしも、少しすれば、普通に平気な顔をして、何事もなかったかのように、タクミの前で笑っているかもしれない。でも、完璧に、つい昨日までのように、友達に戻る事はできないよ。あたしの、自分の想いを無視することはできないんだから。
涙腺がゆるくなっていても、不思議と涙は出てこなかった。けれど、外に出たとき、冷たい風が少しだけ目にしみた。
さっきまであんなにあたたかかったのに、いつしか肌寒くなっていて、まだ夏は遠いんだ、とどうでもいいことをぼんやりする頭で思った。
駅から家までの道のりを、一人、とぼとぼと歩いて帰っていると、タクミと初めてしゃべったあの日を思い出す。
あの頃は何でも出来ると、無敵にさえ思えた自分が、今はとても小さく見える。何でも輝いてみえたあの頃と違って、茜色にキレイに染まる空さえも、そこになんの魅力も感じなかった。
すでにもう、あたしの世界は動きを止めて、希望と喜びで一杯に膨れた世界は、一箇所に空いた大きな穴から、一気にすべてが抜けていき、小さくしぼんだ。
大事な大事なものをなくしたように、あたしの心の中にも、ポッカリと、大きな穴があいている。
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