色彩

伊島糸雨

色彩


 目を覚ます。

 身体が軋むのを我慢して、朝の準備をする。少し汚れた制服を着て、髪を結ぶ。手のひらが頬に触れると、切り傷が痛む。そういえば、と思い出して、マスクをつける。

 音を立てないように、こっそりと家を出る。何もなかったことに安心する。ちょっとだけ、涙が滲む。

 誰とも会わないように、大きな道は避ける。以前誰も通らないことを確認した、アパートと塀の間にある細い道を歩く。

 朝のこの時間になると、その人はいつも小さなベランダで煙草を吸っている。二階から、憂鬱そうな、仄暗い視線を宙に投げかけている。若いんだと思う。時折つくため息は、まだ力を残している。

 私が下を通ると、その人は視線を私に向ける。私が最初にこの道を通った時、なんとなしに頭を下げたら、その人も控えめに会釈をしてくれた。それからはずっと、毎朝しゃべることもなく、ぺこりとするだけの関係が続いている。

 その人は今日もそこにいた。私はそれが、ちょっぴり嬉しい。憂鬱な日々の中で、そこだけは薄く色がつく。神聖なもののような気がして、記憶の奥に、大切にしまっておく。誰にも見つからないように、侵されないように、壊されないように。

 私がどう思われているかはわからないけれど、なんでもいいような気がする。真実がどうであっても、ただ彼がいるだけで、私は勝手に救われた気になる。彼がどうあっても、この時間は私にとっての宝物に違いないのだから。

 だから、私は毎朝のその一瞬だけを、心待ちにしている。

 たった一つの、心の支え。


 *    *


 腐敗した日々。

 そんな言葉が、今の俺の生活にはお似合いだろうと、そんなことを思う。

 益体もない思考の連鎖。連綿と続く堕落。悲しかったようなことも、かつての激情さえもどこかに置き去りにして、なんだかよくわからないまま、漫然と生きている。

 バイトで貯めた金を切り崩しながら、細々と時間を磨り潰していく。

 楽しみはない。その代わりに悲しみも、苦しみも、怒りもない。肥溜めにでも捨てたか、盗まれたか。どうだったろう。空虚な平穏だという表現が無難だろうか。少なくとも、要素としての正しさは、含まれているような気がする。

 俺はこの生活に適応する素質があったみたいだが、たいていの、いわゆる『普通』の領域に近い人間には到底耐えられまい。それほどにつまらない毎日だ。人生の意味なんて考えようもない。そこでなにを見出したところで、なにもないところに手を突っ込んで、「空気がありました」というようなものだ。馬鹿馬鹿しくて、投げ出してしまうだろう。

 いつかは青色が滲んでいたようにも思えるが、今となってはすべてが灰色に堕ちている。不満はない。後悔も、きっと。あるのは自分への憐憫だけだ。

 俺の生活は単調で、それゆえに規則正しい。早く寝るし、早く起きる。そして起きたらまずベランダの窓を開け、煙草を一本吸う。所要時間はおよそ十分。俺の生活の中で、唯一……そう、唯一、ささやかに色がつく時間だ。普段人と関わらないだけに、その変化は俺の中で際立って見える。

 学生が登校するには些か早い時間ゆえに、そして塀に挟まれたその細い路地を通る人間がほとんどいないために、その少女の姿は、とても目立った。

 初めて少女を見たとき、彼女は俯きがちに道を歩いていた。建物の陰に隠れ、何かに怯えるようにこそこそと。制服は微かではあるが汚れが目立ち、上から見ると首筋のあたりに痣のようなものが見えた。俺はうっすらと暗い光景を想像したが、それについては別段どうとも思わなかった。薄情というわけではないだろう。テレビを、新聞を見て、誰かの死を、あるいは誰かが傷ついた痕跡を発見した時、遠くの物語のように感じるのは俺だけではあるまい。

 彼女と俺は、朝のその一瞬に会釈を交わす程度の間柄だ。他には何もない。発展の余地があるか? ない、と俺は断言しよう。俺は歩み寄らないし、彼女だって距離を詰めようとはしないに違いないのだ。

 今朝もまた、変わらぬやり取りを交わす。俺は依然として無力なまま、首をほんの少し曲げるだけの運動に従事する。

 少女の髪は美しかった。前髪を長く垂らして、後ろ髪は首筋のあたりで二つに分けて結ばれている。彼女には、それがよく似合っていたし、俺はそれが気に入っていた。

 少女は俺を見上げて軽く頷く。今日はマスクをしていた。普段の彼女の様子を見る限り、頬に傷でもできたのだろうか。

 もし仮に。俺の想像が正しくて、彼女が顔に傷をつけているのだとしたら、そんなことをしたやつは間抜けなのに違いなかった。

 うっかり見えでもしたら、どうするつもりなんだ。



 *    *


 心臓が痛む。大きな音を立てて、拍動している。ああ、うるさい、うるさい。私の心。私のあたま。

 ずきずきと、締め付けるような鈍痛が意識を苛む。手を当てる。制服に、爪を立てて、皮膚に跡を残す。

 私のからだ。こころ。いますぐ皮膚を裂いて、骨を砕いて、肉を抉って、引き摺り出して、ガラス片に塗れた側溝にぶちまけてやりたかった。きっとそれが正解。正しさを孕んだ、あるかもしれなかった私。

 苦しみも痛みも、ぜんぶぜんぶ私のものだって知っている。私だけの、この鈍い痛み。それがあるから、幸せも私のものだって言い張れる。思っていられる。

 私はこの心臓に支えられている。痛むから。苦しいから。私はここにいられる。朝、あの人に会っていられる。だから、私は、私でいられる。

 なにも、なにも構わない。大切じゃない。必要じゃない。多分きっと、ゆるさない。

 つまらない想いだと笑われるかもしれない。くだらない患いだと唾を吐かれるかもしれない。おまえには過ぎたものだと、殴られるかも。

 でも、どうでもいい。耐えられる。耐えられるから、守りたいものは私が守らないと。

 私だけのたからもの。

 私だけの、こころ。


 *    *


 雨が降った。こんな日も、惰性だけで一日一本を消化する。どんよりとした灰色──つまらない表現だ。何重にもなった雲が空一面に立ち込めている。雨は絶え間なく、雨樋あまどいに降り注いでは音を奏でている。

 煙を吐き、その粒子が水に溶け落ちていく様を思いながら、今日は普段と違うと感じている。

 普段と違う。普段? ここ最近の日課といえば、そうだ。まだ少女が来ない。雨の日だろうと同じ時間に訪れていた少女が、今日に限ってまだこなかった。不思議に思う。不思議に思い、けれどそういうこともあるだろうとケースに吸い殻を落とす。

 窓を閉め、朝食を作ろうと伸びをする。

 玄関から、不自然な間隔の、乾いた音がする。随分と控えめなノックだな、と思う。誰か、ここに来る予定があったろうか。心当たりはない。怪しげな業者だとか、宗教勧誘さえも来たためしはないのだ。警戒する必要もないだろうが。服装は寝間着のまま。まあ、問題ないだろう。

 長くもない廊下を歩く。脇腹を掻く。髪をかきあげる。

 冷えたドアノブを、そっと回した。

「………君は、」

 朝の、と言おうとして、俺は口籠った。

 眼前に現れた、濡れ鼠で、俺の胸元までしか身長のない少女。見覚えがあった。そして今日、見なかったものだった。

 妙な体勢で固まった俺を、濡れそぼった長い前髪の奥から、一対の瞳が見つめている。

 その瞳は、黒く、暗く、乾いている。自然の恵み程度ではどうにもならない、人工的な渇きがそこにある。

 両手は空だ。なにも持たず、そのためになにも示さない。俺は困惑する。なぜこの身体が俺の目の前にいる? 本来はもっと……もっと、距離があったはずじゃないか。

 少女はなにも言わない。そのために、一切は秘匿されている。

 俺は少女を見る。隠されていない顔を、俺は見つめる。彼女がその双眸で俺を捉えるように。

 頬に一筋傷がある。雨に濡れて、薄く斑らに滲んでいる。

 首筋の痣は長髪に隠れて見ることはできない。桜色の唇は薄く引き結ばれている。朱色の亀裂から、雫が垂れる。

 視線をそこで止める。痩せた身体に張り付いた服を、直視しないように。艶かしい光を返す脚を、視界に入れないように。

 ほんの一瞬、なんだかこれはまずいのでは、という気もしたが、すぐに考えるのをやめた。失うものを指折り数えるのも、今更億劫だった。

 数歩、後退る。手には、未だ金属質な手触りが返ってくる。

 湿った香りが、脇を通り抜けた。


 *     *


 腕を顔の前に掲げる。

 瞬間、腕の肉が、骨が軋む。

 耳鳴りがする。もはや何も聞こえない。胸が痛む。今は、掴むことができない。

 私は何もできない。そのように、生きてきたから。ただ、顔を守ろうと必死になる。耐えるために、唇を噛み締める。皮膚が裂ける感触がして、鉄錆の味が口内に満ちる。

 不意の衝撃で息が零れる。声は出ない。言葉もない。私はそのように、生きてきたから。

 悲しいのは、いつもの時間にあの人に会えないこと。もしかしたら今日はもうだめかもしれない。そう思うと、悲しい、ような……そんな気がしてくる。

 毎日何かを取り零していく。私は一体、なにを残せるだろう。今、なにが残っている? 私はなにをこの手に抱きながら、死んでいけるのかな。

 ささやかな幸福が欲しかった。

 ほんのすこしの暖かさが欲しかった。

 ただそれだけで、良いはずだったのに。


 *     *


 シャワーの水が飛散する音を背に、俺は所々に細かい解れや染みのある地元中学の女子制服を手に持っている。一応手洗いしてはみたものの、この類のものを手にしたことがないわけだから、どうにもならない気がしてきている。普通にクリーニングに出すべきとも言ってはみたが、少女はそれを嫌だという。ならば俺は、その要求に従うべきだろう。これは彼女のものだ。俺のものでは、断じてない。

 幸い我が家には乾燥もかけられる有能洗濯機がある。もう諦めて、こちらに任せよう。

 下着は……どうしたものか。まあ、それくらいは自分でやっていただこう。俺には荷が重すぎる。

 着替えとして、俺のスウェットを上下揃えて置いておく。かなり余裕ができるだろうが、余った分は、適当に。そこまでは関知できない。

 何も言わずに洗面所を出る。これまで一度も言葉は交わしていないが、久方ぶりの来客だ。

 あたたかいミルクなどで、おもてなしといこう。


 *     *


 温かいお湯が、冷えた筋肉を解きほぐしていく。強張った皮膚に染み渡っていくようで、その感覚に身を震わせる。

 頬と、唇と、首筋と、腕と、胸と背中とお腹と脚と。お湯が当たると、少し痛む。心臓は、ずきずきしている。

 鏡を見る。そこに、私が在る。醜い身体。貧相な身体。肉が薄くて、肋骨が浮き出て、健康的にはとても見えない。

 あの人は、私の髪を気に入っている。私の瞳を気に入ってくれている。いつも、視線を感じるから。自惚れでなければ、きっと。そうであってほしいな、と思う。

 けど、あの人は私の身体を見ようとはしない。たぶん、こんなだから。あまり、好きじゃないのかも。悲しくはないけど、ちょっと寂しい。

 欲しがりすぎるのは、よくないことなんだと思う。手に入らないものを求めるのは、悲しいことだから。嫌われてしまうかも、しれないから。

 受け入れてほしい。私を求めてほしい。私はこの手に、欲しいものがあると知ってしまった。この手に抱きながら死にたいと、思っちゃったから。

 ごめんなさい。

 そんな風に、呟くけれど。飛沫のうちに溶けて、消えていく。あの人には届かない。でも、それでいい。

 あの人はゆっくり入っていいと言ってくれた。そうしていたい。私では得られない穏やかな日々の中で、そうしていられたら、どれだけ幸せだろう。安心して、これ以上失うことを恐れないで、側にいられたら、どれだけ……。

 夢だと知っている。いつか醒めてしまうことも。

 だから、守りたいものは、自分で守らないと。


 *     *


 俺は小食ゆえ、普段はあまり朝食を摂らない。だから必然的に、もう一人分量が増えても大して変わらない。薄いパンが一枚ずつと、俺はコーヒーを。少女には、ホットミルクを。

 遠く、衣擦れの音がする。ドライヤーも置いておいた。やる気のなさそうな風が唸っているが、五分か十分か、そのくらいあれば乾くだろう。

 テーブルに皿を並べていると、リビングの扉が開かれた。

 袖を余らせた少女が突っ立っている。こっちに来るように手招きして、普通に捲ってやった。何を迷ったんだ? 俺のものだから遠慮したのか。まあ、身体のラインが出ていなければ、こちらとしてはなんでもいい。

 先にテーブルと向き合い、食事にしよう、という意味合いを込めて空いている椅子を指差す。

 少女は戸惑ったようだったが、頷いて、大人しく腰を下ろした。視線が皿の上とマグカップとを通って、俺へと至る。俺は何も言わずにコーヒーを啜った。

 少女はしばらく俺から視線を逸らさなかった。けれど俺の様子に何を見たのか、やがて俺を真似るように、おずおずとホットミルクに口をつけた。

 視界の内に、光るものを見たような気がしたが。

 いや、なにもない。俺はただ、渇きの薄れた瞳を見るだけだ。

 そうとも。気丈な彼女にかける言葉を、俺は持ち合わせていない。

 なぜなら、俺はそのように生きてきたのだから。

 他に理由なんて、思いつかない。


 *     *


 私の涙を、あの人は笑わない。私の傷を、あの人は気にしない。私の痛みを、あの人は受け取らない。

 あの人は、ただそこにいてくれる。私はそれが嬉しかった。消えてしまわない、零れてしまわない。あの人はなにも言わないけれど、そばにいると温かい。

 ずいぶんと長いこと、人前で泣くことをしていなかった。だから、一度崩れたらもうどうにもならなくて、私はあの人に見つめられながら、ホットミルクに口をつけて、その温かさに泣いている。心臓の緊張が解けていく。私は、痛みを忘れられる。

 私は弱くなった。

 弱い私であることを、一人の女の子であることを自分に許してしまった。

 陰に隠れて、細くて、狭いけれど、心地よい逃げ道に出会ってしまった。

 私は弱くなった。

 どうしようもなく、恋をしてしまったから。

 初めて、その言葉を知ってしまったから。

 灰色の私が、ほんのすこしだけ、色づいて見えるから。

 日陰には咲かない、小さな幸せ。

 私の恋の色彩。

 それは、きっと──


 *     *


 相変わらず、彼女は余らせた袖を俺に捲らせている。何が気に入ったのかは知らないが、他に用意したものを全部無視して、冴えない色のスウェットを選んでは、ついと俺の元にやってくる。愛らしくはあるが、俺にはそのわけがどうもよく分からない。さらに言うと、俺はその行為をひどく背徳的に感じている。それに関しては、今更だと言われてしまうと俺は口を噤まざるをえない。この関係は、最初からずっと間違いだらけだ。

 彼女はだいたい週に一、二回、ふらりと俺の家にやってきて、シャワーを浴びて着替えては、ホットミルクを啜っている。曜日に決まりはなく、日月の時もあるし、水木とか、火土の時もある。まぁ俺には曜日などさして関係ないので、あれこれ言うようなこともない。月曜日が日曜日だし、日曜日は月曜日だ。

 湯気の立つマグを二つ並べる。もうすっかり見慣れた光景だった。それくらいには長く、俺たちは互いの関係を維持している。両者とも口を開きもしないのに、妙なものだ。人間二人、テーブルを挟んで向かい合うことなど、これまでほとんどなかったというのに。俺は、こういう時間に慣れつつある。

 慣れること。おおよそすべての事柄において、それは素晴らしいことだ。適応し、順応し、穏やかな日々を手に入れることは、間違いなく善だろう。否定する理由はどこにもない。

 けれども俺は、その瞬間に限って、そいつを呪った。慣れること。それは良き営みだろうが、不意の変化にあまりにも弱すぎる。

 ドアノブが動くのを見て、俺はいつもと変わらない、灰色をした少女の姿を予感した。

「……?」

 だから、彼女が俺の前に姿を現した時、こう思ったのは当然の帰結だろう。

 思ったのと、違う。

 実在したのは、肌色と、僅かな、白。

 どういうことだ。

 恥じらいのあらわれか、下着はしっかりと身につけている。違う。つけているからなんだ。どうだというんだ。ふざけるな。なんのつもりだ。俺は声が出ない。困惑して硬直して立ち尽くす。

 少女らしい白い肌。艶やかな稜線を描く肋。その下に続く滑らかな腹。折れてしまいそうな儚い四肢。

 首筋、腕、腹、脚。点々とある新旧入り混じった青痣。火傷跡。引き攣れ治癒した傷。

 目を逸らしてきた少女性が、今眼前に詳らかにされている。まるで人の臓物を目の前にして人体の深奥を見たと叫ぶような──


 ──違う。俺が見るのは俺のはらわただ。俺が目を逸らしたのは俺の在り方だ。初めて彼女が俺の元を訪れた時、俺は彼女の身体を意識の外に追いやることで、俺の中のくそったれが喚き散らすのを避けようとした。俺は紛れもなく正しかった。くそったれは、今まさに叫び出したところだ。

 灰色から片足だけ飛び出すような平穏を、俺は愛していた。

 とびきりの甘さなんてない、それこそなにもないなにも起こらない平凡を、俺は愛していたのだ。心の底から、楽しんで。なにもないことを期待していた。

 なにもないこと。それは俺のうちに一切が去来しないことだ。なにも得ずなにも為さないくそったれな日々だ。

 それを望まなければ、俺は俺の感情に喰い殺されてしまうと思った。そして喰い殺された俺は、いずれ誰かを殺すだろうと思った。そんな夢想に取り憑かれていた。どうあれ俺は社会不適合者だ。そのように、腐っていた。

 皮膚と床が擦れる音を俺は聞いている。やけに大きなそれは、徐々に距離を詰めてくる。俺は動けない。動かない。彼女の姿に、髪に、瞳に目を奪われて、それどころではなかった。

 久しく忘れていた熱が、俺を満たしていく。俺は俺を認めなければならないだろうが、どうあれすべては無力であるに違いなかった。

 俺は自分が求めたものの答えを知るだろう。

 俺が愛した安穏は、何によってもたらされたのか。

 俺はいったい、何を愛していたのか。

 ささやかな幸福は、何色であったのか。

 俺はその色彩を、何と呼ぼうか。




 コーヒーは冷めていた。ホットミルクも、同じ憂き目にあった。

 冷めたコーヒーほど不味いものはない。だから俺は、そいつをマーブル色に染め上げる。別々の二つが、同じになるように。

 甘くはない。

 苦みは、マシではある。

 大丈夫。俺たちはそいつを飲み下す。

 くそったれは、もう喚かない。


 *     *


 あの人は、私の髪を優しく梳いてくれる。肋を撫ぜて、そのままお腹の上を滑らせる。すこしくすぐったくて、身を捩る。

 あの人は、私の傷を忌避しない。他の白いところと同じように、愛撫して、慈しむように触れてくれる。

 私に触れさせてくれる。私に恋させてくれる。愛していると、確かめさせてくれる。好き、というのでは、ちょっぴり足りない。心地の良い信頼を、あの人はくれる。させてくれる。腕の中で涙を流すことを許してくれる。私の小さな抱擁を受け入れて、頬を濡らしてくれる。

 優しいひと。温かいひと。

 触れた分だけ、大切になっていく。もらった温度の分だけ、宝物になっていく。

 いつしか終わりが訪れるとしても、絶対の真実として、私は今を愛していられる。

 失う前に、消えちゃう前に。私のエゴだとしても。


 *     *


 彼女と近所の土手を散歩した時、日向に群生している花を彼女が見つめていることに気がついた。

 小さな花だった。どこかで見たような気もするが、名前が出てこない。好きなのか、と聞くと、頷きが返ってくる。俺はそれ以上なにかを聞こうとは思わず、彼女が満足するまで隣に突っ立っていた。

 それからしばらく経って、散歩の過程で同じ道を通る機会があった。そういえば、と思い立ち、足を止める。その花は変わらずそこにあって、薄い紫色を放っている。

 気まぐれだった。急に自室に色が欲しくなったといえばそうだし、彼女が好きだと明確に反応をしてくれたから、あげたら喜ぶかもしれないと思ったといえば、そうでもある。理屈と膏薬はなんとやら。どうとでも言えようが、そうだな。比率的には、後者が圧倒的だ。

 彼女が『自生している花』ではなく、『花そのもの』を好いているといいのだが。俺が手折った瞬間にその美しさが意味を失ってはどうしようもない。しっかりと、彼女の元に届かなければ。

 俺は特定の信仰を持ち合わせちゃいないが、個人的なこだわりとして、恋愛は信仰でなければならない、というものがある。しかし残念ながら、この性格のおかげで、生まれてこのかた、そいつを適用する場面には恵まれてこなかった。

 が、だからこそ、俺は今、信仰に縋るべきだろう。たった一人の少女が俺の神だとすれば、俺はこのように唱えよう。

 ああ、どうか神様、俺の想いがしっかりきっちりばっちり届きますように。

 直接言ったらひどい目に合いそうだ、と予見する。脳味噌の襞の奥底に秘めておくのが吉かもしれない。

 彼女は今、苦痛と憂鬱に満ち満ちた学校とやらに行っているところだ。今日も彼女は傷つけられるに違いない。どこに行っても、彼女は馬鹿を見る。俺はそれを哀れに思うが、決して彼女を救おうなどとは思わない。

 誰かを救う。そんなもの、俺には過ぎた代物だ。俺には誰かを救うことなんてできやしない。無力な俺にできることと言ったら、俺の在り方によって少しでも救われると言った誰かが、ほんの少しのぬくもりを欲した時、安心していられる拠り所となれるよう、ただそこに在ることくらいしかない。

 俺は彼女を救わない。だから、彼女が勝手に救われてくれたらと、心から祈っている。


 *     *


 花を一輪もらった。私が大好きな花。ずっと、欲しいと願っていたもの。

 その花は私と同じ名前をしている。私は自分がどうしてこんな名前なのかまるでわからないけれど、花の方は、自分がどうしてそう名付けられたのか、よく知っていそうな気がする。だって、こんなにも相応しいのだもの。こんなにも、ありのままで美しいのだもの。

 あの人が、私のためにそれを選んでくれたことが嬉しかった。私のことを見て、覚えてくれることが嬉しかった。

 枯れてしまうのが嫌だと言うと、あの人は押し花にすることを勧めてくれた。埃を被った辞書を取り出して、雑紙に挟み、分厚いページの真ん中あたりにそっと差し込む。

 どれくらいでできますか。──さあ、一週間もあれば、できるだろ。

 大切にします。──いくらでも、は無理があるけど、まあ、また取ってくるさ。

 息苦しさと生き狂しさは、どこか遠くに置き去りにしよう。目を閉じて、耳を塞いで、なかったことにしてしまおう。仮にそれが、偽り欺くことだとしても、それでいいよ。それがいいよ。

 明日を生きて、また小さな幸福を掴めるというなら……私の人生にも、きっと意味があるのだから。


 *     *


 彼女が俺のスウェットに拘っていたのは、匂いが好きだからだそうだ。それについて、些か変態的だという旨のことを言うと、彼女はさっと顔を赤らめた。狡くないか、と思う。俺が同じことをやったら変態的を通り越して普通に気持ち悪いからだ。俺には何もない。そうぼやくと、いつか服を返す時がきたら、その頃には自分の匂いが染み付いているだろう、と彼女は言った。なるほど、その通りだ。その通りだが、俺は代償として彼女を失うことになる。それはとても、嫌な考えだ。俺はぼんやりと、いずれやってくるであろう喪失に思いを馳せる。

 不意に、横合いから手が伸びてきて、小さな影が俺を覆った。俺は、真上に揺れている黒い瞳のうちに、鏡写しの自分を見た。俺は揺れている。彼女もまた、波打つ自分を見ていることだろう。

 彼女が俺の頬に手を伸ばす。俺は彼女の首筋に指を這わせる。交差した腕は緩やかに触れ合い、血の通った生ぬるさに浸される。彼女の長い前髪が、俺の鼻先で淫らに薫った。

 社会に溶け込むことを放棄して、俺たちは互いの傷を愛し合うように、己が内を曝け出し、汗に濡れた肌を擦り合わせる。一番単純でわかりやすい方法で、俺と彼女は慰め合う。日が昇り、自分が目を覚ます恐怖から逃れるために。

 何度だって同じ朝を共有したいと、そう思うから。


 *     *


 罵倒への憂鬱と、暴力への諦観。ずっとずっと、繰り返してきた。終わらない悪夢を見るように、微睡んで、揺蕩って、水底の酸素を集めるように、喘いで、吐いて。たったこれだけの人生で、たったこれだけの悪意だと心臓の痛みを誤魔化してきた。今だって、それは変わらない。

 唇をなぞれば、傷口に触れる。痣を撫でれば、鈍痛が返ってくる。

 けれど、けれど、それ以上に。今の私は思い出すことができる。

 甘い口づけの感触を。繊細に蠢くあの人の指先を。

 あの人がくれた幸せを、愛を。

 私は弱く、そして幼い。この身に降りかかる火の粉を払うことさえ、ろくにできやしない。ふらついて、のろのろと腕を掲げることしか。

 夕暮れ時の気だるさの中で、私はあの人を抱きしめる。

 ありがとう。

 そして、ごめんなさい。

 いつかきっと私は終わらせる。それが遠い先なのか、眼前に迫っているのかはわからないけれど、私のたましいはとうにだめだった。皮膚で感じる暖かさの裏で、どこかが決定的に冷えているのを私は自覚する。

 欲しかったものはここにある。だからこそ、枯れてしまわないように、日常の一ページに挟み込んで、永遠の似姿を与えたい。

 そのために必要なことを、私は知っている。これまでとは違う。私はそれに、別の意味を見出せる。

 もう、空虚な終幕は夢想しない。

 出来上がった押し花を、あの人は栞にしてくれた。花弁の紫は薄氷のように透き通って、どこか儚く、美しい。

 私に相応しいと、あの人は言う。こんな私を美しいと、そのように言ってくれる。

 私はそのままでいたいから。だから、ごめんなさい。

 私は私のために私を殺す。

 それが、色を残す唯一の術だと信じている。



 *     *


 彼女はやってこない。

 最後の微笑みが、荊のように俺の心臓を締め付けている。




 テレビを点ける。

「───」

 黒く色づいた名前を見る。

 俺は、それの正体を知っている。



 なんてことはない。

 なんてことはない。リモコンを、テーブルにおく。

 いつも通りの、一日だ。何も変わらない。これまでと、何も違わない。

 立ち上がる。ベランダの窓を開ける。なんの変哲もない風景が、広がっている。

 雨が降っている。

 雨は絶え間なく、雨樋に降り注いでは、音を奏でている。

 なんてことはない。

 煙草ケースをポケットから取り出す。蓋を開け、開けようとする。うまく、開かなくて、俺は腹が立つ。

 腹が立つ。どこからかラジオの声が聞こえてくる。雨音に紛れてノイズが増している。腹が立つ。開いた。

 困ったものだ。煙草一本取り出すのにも苦労するとは。日課だというのに。どうした、忘れたか? そんなことはない。日課だろうが。毎日、繰り返してきた。そうだろう、なあ。

 ライターを取り出して火をつける。いや、うまくつかない。湿気のせいか。風は……出ていない。

 なんてことは、ないだろう?

 何か恐ろしいものが俺を満たしている。失ったはずのものが、醜く蠢いている。

 傷口に湧く蛆虫のように蠕動する。切り傷から入り込んだ寄生虫のように脳みそを蹂躙する。芋虫が蛹になってどろどろに溶けて形を失って、……本来あるべき姿を思い出したように、奴らは羽化するじゃないか。

 醜悪な全貌、愚かな虚妄。俺は自分自身がそのようなものの内にあったのだと知る。

 ここにはなにもない。失くしたものは戻らない。戻ってきてはならないだろう。だから俺は、いつまでも空虚だ。空虚でなければならない。そのように定めなければ、この手の震えが意味を持ってしまう。持たせるな。それは、俺をうちのめす。

 俺は日常を取り戻す。くだらないなにも得ない腐敗した日々を。色は灰に。他にはなにもなく。一片の色彩も必要としない。そのような人間が、ここに在るのだ。

 髪の色。瞳の色。肌の色。傷の色。肉の色。すべての感触。雨の匂い。声という音と、呟かれた小さな言葉。

 俺はそれを、どこまで思い出せる? どれだけを、いつまで。覚えていられるというんだ。あの日々の色彩を、幸福の実感を、彼女の存在の証明を。

 怒りなんてものじゃない。彼女がそれを選んだなら、その感情は適切ではないだろう。俺の言葉は届かない。すべては過去になり、俺はもうそこにはいない。

 彼女は、いない。

 手に持った一切を投げ出した。息苦しい。一直線に寝室に向かう。残ったものを思い出す。

 乱れたベッドの上。灰色の服を取り上げる。恥じらいとか躊躇いとかそんなものはどうでもいい。俺の中で彼女が消えていくのが恐ろしかった。それだけが何よりの恐怖だった。

 袖の捲られたスウェットからは、確かに自分のものではない匂いがする。これまでのすべて、彼女と出会ってから、俺が感じてきたすべてが去来する。これに蓋をするなんてできるはずもない。これから先ずっと、俺は不意にあの日々を思い出して、わけも分からず泣き崩れるに違いなかった。健気に咲く小さな花を見ては、己の無力に身を焦がすに違いなかった。俺は今、こんなにも悔しいのだから。

 ふと、彼女はあの栞をどうしたろうかと考える。彼女は、あれを持っていったのだろうか。

 重く沈んだ脳味噌で、考える。

 ぼんやりと、ぼんやりと。

 小さな幸せは、どこに行ってしまったのだろう。


 *     *


 一面薄紫の道を、私は歩いている。隣にはあの人がいて、私はもうどこも痛まない。

 目を反らす必要はどこにもない。行き着く先はもう決めているから。私はもう、眠らないから。

 苦しいだけの日々は悪い夢だった。あの人と出会って、それを知った。

 束の間の平穏を得た。ただ一つの恋を知った。たくさん貰うばかりで、私はなにをできたかわからないけれど。あの人から憂鬱の気配が薄れるのが、私は嬉しかった。こんな私でも、あの人に何かをあげることができた。そのことが、あの人が私の名前を呼んでくれることが、ささやかでも、私の幸せだった。

 痛いだけの人生じゃない。苦しいだけの私じゃない。あの人がくれた花が、私にそれを示してくれる。

 手を繋いで、温度を感じて。あの人がそうしてくれたように、花を一輪摘み取った。

 私はそれを胸に抱くけれど、ここから先には、持っていけないから。

 手を離す。緩やかな風に揺られて、遠く彼方へと流されていく。

 花びらが散る。ゆっくりと解けていって、やがて、溶けるように消えていく。私の手は、もう一切を手放した。

「さようなら」

 私に幸せをくれたひと。


 風に揺れる花を踏みしめながら、私は一人で終わっていく。

 その夢はきっと、菫と同じ色をしていた。


                                 【終】

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色彩 伊島糸雨 @shiu_itoh

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