彼は暗い夜雨の中に差し込んだ、一条の月の光のようだった

 雨が降っていた。普通の生き物なら一時間浴びただけで心臓が止まってしまう死の雨が。その雨の中でも生き生きと枝葉を広げ瘴気を放つ、美しい紫陽花の茂みの中で、私は死を待っていた。

 私は捨て子だった。瘴気の魔物と同じ色である銀髪と銀の瞳の、誰にも必要とされていない私を拾ったのはカティスの父。最初の頃は我が子と同じように私を育ててくれたお父様は、ある日を境に豹変した。きっかけは何だったのか。お父様が「残された町」の長になったからかもしれないし、あるいはお母様が瘴気の魔物に喰い殺されたからだったかもしれない。

 私とカティスに、お父様は戦えと言った。町の人々を守るために。お母様のような犠牲をもう二度と出さないために。そして私たちは、戦士として訓練を受け、瘴気に耐えるために身体を作り替えられることになった。

 お父様が誰よりも先に私たちを犠牲にしたのは、その後犠牲になった無数の子どもたちへの、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。戦えと初めて告げたときから感情を表に出さなくなったお父様は、真意を私たちに教えてくれることはなかったけれど。

 あの頃の私にとって、戦うことは死よりも恐ろしいことだった。何かを傷つけるための武器として与えられた双剣を手に取ることさえ。訓練中でさえ怯えてばかりの私に、ついにお父様は愛想を尽かした。お前などいなくてもいいのだと、代わりなどいくらでもいるのだと、父と慕っていた人に言われるのはつらかった。

 だから私は逃げ出した。貧しく狭い「残された町」に、自分の居場所などないとわかっていたのに。

 その頃にはもう、町の人たちは私が何をされて何をしているのか知っていて、感謝はしてくれたけれど同じくらい恐怖を感じてもいるようだった。どこへ行っても私は逃げ出してきた子どもではなく、化け物を狩りに来た化け物の仲間だった。私が来たということは、どこかに倒すべき化け物がいるのかもしれない。その予想から生まれる恐怖の視線は、私にとっては耐えがたいものだった。彼らの視線は私を恐れながら、期待していた。私が彼らを守ることを。化け物と戦って、戦って、そして――

 耐えられるわけがない。人の目を避けるうちに、私は町を守る城壁の外に出ていた。外には雨が降っていた。雨に濡れながら私は歩いた。灰色の高く切り立った城壁と雨から町の人を守るための巨大なドームから逃げるように。

 町の外は異様に巨大化した植物の森だった。スケールさえ変えれば、緑豊かな湿地帯に見えたかもしれない。人が何人乗ってもびくともしないだろう蓮の葉、恐ろしい高さからこちらを見下ろしてくるミズアオイ。真っ暗な夜の森で、不気味なシルエットが雨に濡れててらてらと光っている。時折葉の付け根や茎に出来た瘤から吐き出されるのは、黒紫色の瘴気だ。

 沼地を抜け、ふらふらとあてもなく彷徨っていた私は、やがて奇妙な広場に辿り着いた。それまでの森と違い、その広場は明るかった。そこにある紫陽花のような美しい花が、光を放ちながら咲き乱れていたからだ。サファイアの青から、アメシストの紫へ、そしてまたブルートパーズの青へ。水に濡れた葉や茎もエメラルドのように輝いている。その鮮やかな輝きが、群青の空の闇に群れとなって浮かび上がっていた。

 余りにも美しい風景に、私の足は止まってしまった。

 ここで終わりにしよう。

 今でも私は、あの時の自分の感情を完全には否定することが出来ない。その美しい景色の中で、淡い光に抱かれて果ててしまえたなら、どんなにか幸せだったことだろう。

 紫陽花の茂みの中に、私はうずくまった。どこにも行きたくなかった。ただ終わりが来ることを待ち望んでいた。いくら作り替えられていても、元はただの人間だ。雨に打たれ続ければ体温を奪われ、その機能を失う。それが叶わなくても、瘴気の魔物に見つけられたらきっと一瞬で喰い殺されるだろう。

 うずくまって雨に打たれながら、私は思った。肌を打つ寒さとは正反対の、お母様が生きていた頃の我が家のぬくもりを。紫陽花の無言の光とは正反対の、暖かくはぜる暖炉の炎の輝きを。

 暖かな記憶を呼び起こすうちにも体温はどんどん雨に奪われて、意識はもうろうとしていった。

「カティア」

 幸せな妄想を遮ったのは、硬質な声。余りにも聞き慣れた、声変わりしたばかりの低い少年の声だった。私は嫌々ながら顔を上げて、青く淡く輝く紫陽花の向こうに少年の姿を認めた。

「カティス」

 どうして追いかけてきたの。どうして私なんかを――

 たくさんのみっともない劣等感と拒絶に満ちた声と美しい紫陽花と、それらをすべて無視して、カティスは私に手を伸ばした。黒髪に黒い瞳。夜の闇に紛れてしまいそうな、私と真逆の色合い。茂みの中に隠れていた私を見つけ出して捕らえようとするその白い手が、まるで雲間から差し込んでくる月の光のように思えた。

「カティア」

 手を取れと、彼の声が、目が訴える。拒絶できるはずなんてなかった。捨てられた私を拾ってくれたお父様がまた私を捨ててから、家族と呼べる人は彼だけだったのだから。そうでなかったとしても、私は、彼を――

「帰ろう」

 生きていけると思った。この光さえ、私の前にあれば。殺戮のための道具になっても、最後の心のひとかけらだけは手放さずにいられると。

 泣きながら縋った手は温かかった。巨大なドームの中に閉じこもってしまってから、久しく忘れていた陽光のように、あたたかかった。


 それから後も、訓練は決して順調には進まなかった。それでも私はもう逃げ出そうとは思わなかった。カティスの背中を守って戦いたかったから。

 努力はゆっくりと実って、私とカティスは町を守る兵士の要になっていった。それと共にお父様の権力も増していき、その影でお父様に反対する勢力も育っていった。

 反対する理由はたくさんあった。人を作り替えるために課せられる過重な税。生まれてすぐ戦士となるために親から引き離され、人ならざるものへと作り替えられる子どもたちへの同情。そして何よりも、瘴気の影響でどんどん減っていく食糧生産への不安。

 破綻が目の前まで来ていることは誰の目にも明らかだった。目の前まで迫った滅亡は、人々を反乱へと駆り立てた。

 どんなに抗っても勝てる見込みのない瘴気の魔物にも、瘴気を生み出す植物にも、向かうことなく。

 そして反乱は、またお父様を変えてしまった。瘴気の魔物たちを退けるためのものだったはずの力は、反乱軍からお父様を守るための力になった。

 反乱は、何のためのものだったのだろう。確かにお父様は圧制を敷く者であったかもしれない。罪もない子どもたちを戦場へ駆り立てる独裁者だったかもしれない。でも、お父様亡き後、私やカティスのような力を持つ子どもたちなくして、誰がこの町を守るのだろう。私たち以外の、誰が。

 お父様もきっと、最初はそんなふうに考えて自分の身を守ろうとした。でも反乱の勢いは狭い町の中で燃えさかる火事のようにあっという間に広がっていき、そんな状況では、お父様が自分が本当は何を守りたかったのかすらわからなくなってしまうのも、仕方のないことだった。

 一体誰が正しかったのか、私にはわからない。でも、カティスの願いだけはわかる。カティスはお父様を守らなければならなかった。彼はお父様の子どもだから。

 でも私は違う。私は、自由になれる。

 私はその自由を、叶えられなかったカティスの願いのために使うだろう。


 反乱軍との対立がはっきりして、身を守るための戦力が覚束なくなってきた頃、私たちの「仲間」として加わったのは、人の形をしていないものだった。余りにも発達しすぎた筋肉、鋼鉄のような爪、疲れを知らない底なしの体力。泣きながら戦う彼らに、私たちも気付かざるを得なかった。

 お父様が連れてきた子どもに何をしているのか知ったカティスは、円筒形の水槽が立ち並ぶ地下の実験室で叫んだ。その背中を抱きしめながら、私は選択の時が来たことを感じていた。

 一緒に行こうと言った私に、カティスは頑なに首を横に振った。

「それでも僕は……父上を……」

 嗚咽の間に絞り出したような彼の声と言葉を、よく覚えている。声には出せないまま無言で叫んだ、彼が自分では叶えることの出来ない願いのことも。


 反乱軍は私を快く迎えてくれた。彼らが忌み嫌う技術で作られていたとしても、私はお父様の実験の最初の犠牲者で、何より貴重な戦力だったから。

 お父様の実験は、ますます苛烈を極めていた。皆を守るためのものだったはずの技術は、今ではもうはっきりと皆を抑圧するために使われていた。より強く、より圧倒的な、もはや人の形すらしていない、かつての子どもたち。彼らを率いて戦うカティスは、今や皆の敵。圧政の象徴だった。たとえ町を守るために、彼らに代わる手段がないとしても、もうどうしようもないと誰もが思い始めていた。


 決戦の日は間もなくやって来た。私が連れてきた、お父様に恨みを抱く、まだ正気を保っている子どもたち。瘴気の魔物たちには効き目のない、古い銃火器を持ち出した町の人々。燎原の火のように町を駆け巡った噂が、彼らを塔の周りに集わせた。

 巨大なドームの天井まで達するような灰色の塔がお父様のお城。私たちが作り替えられてから、少しずつ積み上げられた重たい石のお城。

(父上を止めてくれ。そして、皆を……)

 カティスの意志を、正しく受け止められているか、私には自信がない。私は信じたいものを信じているだけなのかもしれない。カティスの本当の思いを無視して。

 それでも、もう選んでしまった。

 反乱軍のリーダーを結成の頃から務めていた男が、大声で戦いの始まりを告げる。塔の周りに集まった人々も皆が歓声を上げる。まるで何か偉大なことを成し遂げようとしているかのように。

 人の波が動き出す。私はその先頭に走って、人々に襲いかかる魔物を、お父様によって作り替えられた子どもたちを、次々に双剣で切り払っていく。迷いはなかった。彼らがもう戻れないことを知っていたから。迷うわけにはいかなかった。彼らの本当の両親に、その命を奪わせるわけにはいかなかったから。

 否、私がすべての子どもたちを倒せるわけがない。数を頼みに私たちは進む。銃弾が飛ぶ。弾幕をすり抜けてきた子どもたちを私が切り倒す。そうやって私たちは高い塔の頂上を目指す。門を守っていた異形を多くの犠牲者と引き替えに倒し、螺旋階段を上へ上へと。

 彼が目の前に立ちふさがったのは、頂上へ続く階段の前の小部屋だった。

「カティス」

 手を出すなと皆に仕草で示しながら、私は前へ進み出る。カティスは隙のない仕草で私と同じ双剣を構えながら、私を見る。その、黒い瞳。

 目が合った瞬間に、わかってしまった。私は間違っていなかったのだと。ここまで共に駆け上ってきた人々に刃を返してカティスと共に果てる、その望みを断ち切られてしまったのだと。

「裏切るのか、カティア」

 薄く微笑んだカティスは、でも私を責めているふうではなかった。だから私も笑みを浮かべて答える。

「裏切らないよ」

 貴方の願いを、裏切ったりしない。

「だって私は、最初からお父様の味方じゃなかった」

 私が味方したかったのは、あの夜からカティスただ一人だけだ。

 カティスの願いだけが、いつだって私を動かす。

 私は静かに双剣を構える。訓練の時よりも、はるかに凪いだ気持ちで。いつもカティスと背中合わせに振るってきた、その刃を今度は彼に向けるために。

 生き延びて、そして、誰かを守るために。

 すべての人を守れるほどこの両手が強くなかったとしても、本当に守りたい人はもう守れないのだとしても。

 正しいものが、この世界にひとつもないのだとしても。

 紫陽花の咲き乱れる夜に差し込んだ光が、この胸にある限り。

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短編集 深海いわし @sardine_pluie

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