沈まない太陽
「綺麗な夕日だね」
病院のベッドの上で、彼女は微笑んだ。透明な笑顔。妹はいつもそんなふうに笑う。
病室から見える海は夕暮れの赤を映していた。
妹にせがまれて、私は翌日から夕日を描き始めた。妹が好きな海と、海を染める鮮やかな色彩を。
浜辺に画架と折りたたみ椅子を引っ張り出してキャンバスを置く。波の音だけが聞こえる。とても、静かだ。波の音は途切れることなく続いているけれど。
目を上げて水平線を見つめた。
夕日が沈もうとしていた。赤い色。母は赤が嫌いだったが、私は好きだ。特にこの、ほんの数分で消えてしまう儚い色が。
毎日見ているけれど飽きない。まだ、足りない。
キャンバスの絵はとっくに完成していた。夕日を映す海。
「絵って、完成したときが幸せなの?」
記憶の中の妹が訊ねる。病室の窓を通した夕日は、ここから見るそれよりも柔らかかった。
「それとも、描いているとき?」
「わからないな」
戸惑いながら、私は答えた。
幸せの質は違うと思う。でもどちらが幸せなのか、私にはわからない。一つだけ言えるのは、絵が完成したという達成感は長くは続かないということ。
幸せ。
まだあの病室にいた頃、幸せかと問いかけた私に、妹は笑って頷いた。
妹の笑顔は透明で儚くて、嘘の気配がした。
その三日後に、妹は病室を抜け出した。
海へ行ったのだ。ひとりで。
妹も私も海が好きだった。歌うことよりも、泳いでいることの方が妹にとっては自然なことだったのだろう。海の近くに住んでいた頃、私達は暇さえあれば海へ出かけていった。海風は妹の髪や喉を痛め、母はそれを嫌がった。
母が言うところの「大事な舞台」の前日も、妹は海へ出かけた。翌日の舞台は大成功とは到底言えない出来だった。母は海辺の家を引き払い、私達は海から引き離された。
病院を抜け出した妹は二度とは帰らなかった。幸せになりたかったのだろう、彼女も。そのわがままは私や母を酷く悲しませたが、間違っていたとは思わない。
母は半狂乱になって妹を探した。妹は母の代わりに歌えるただ一人の人間だったから。奇跡の歌姫と呼ばれた母の名をそのまま受け継ぐ、第二の奇跡の歌姫。
妹は一枚の完成した絵だった。母という形をなぞった絵。
海で泳ぐことが好きな少女が存在する余地は、その絵の中にはなかった。母は海には無関心だったから。憎しみという、ゆがんだ形の愛情さえも持ってはいなかったから。だから妹が持つ海への執着を理解することはできない。
母は妹を見つけることはできないだろう。彼女は妹の嘘を見抜けない。絵であることをやめた妹を見分けることはできない。だから本当の妹と出会うこともない。
妹がいなくなってから、私は絵が描けなくなった。まわりの友人達が夢を叶えようともがいている中で、私だけが止まってしまっている。毎朝画廊の掃除をし、受付に座って昼を待つ。昼は近くのレストランで食べ、それから画廊の受付で数人の客の相手をする。夕方には画架とキャンバスを持ち出して海へ。
毎日同じような生活が続いていた。奇妙に現実感を欠いた毎日だった。夕日は見るたびに新鮮だと言った人がいるが、そうは言っても夕日は夕日で、毎日繰り返される単調な営みだ。太陽とこの星が、毎日、毎年、同じことを繰り返している結果なのだ。
繰り返し。
彼らにとってはそれも良いかもしれない。星の命は長い。だが、私は違う。人生は短く、いつ終わるのかもわからないものなのだから。
……悪い癖だ。
夕日を見ると、つい死を思い浮かべてしまう。生命感に満ち溢れた夕日だってあって良いと思うのに。ため息をついてキャンバスに目をやった。静止した夕日には死の匂いが染み付いている。
「この野郎」
私は画架を蹴飛ばした。海風に湿った砂は舞い上がりもせず、キャンバスは鈍い音を立てて着地する。
これで邪魔者はなくなった。
視界の中の太陽が動き出す。病院を抜け出した妹の姿を想像して、思わず笑みを浮かべた。
沈んでゆく太陽を眺めながら、私は忙しく頭の中を動かす。
明日は朝早く起きよう。伸びすぎた髪を切りに行って、美容師と下らない世間話をして。長く会っていなかった母に会いに行こう。ずっと休んでいた美術学校にも顔を出そう。画廊へ行って、友人達の絵を見て。
そうだ。それから、新しいキャンバスを買うんだ。
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