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2021年10月14日 11:03
まあ、この時代の動員人数は過大に盛られていると思われるので、話半分以下とは思いますが…。実際に20万人も居たら、完全包囲なんてそう簡単に出来るものではないでしょうし、大半は逃亡したと思います。逃げ遅れた連中が虐殺されたのは事実でしょうけど…。いわゆる戦場でのロジスティックがそれなりに確立されていくのは、実は20世紀に入り、第一次世界大戦が勃発した頃だそうです。兵站という、後方輸送部隊が出来て来るのもようやくナポレオンが登場する頃。戦国時代の日本では、小荷駄で、これは戦場に持ってくるだけ(後方から追加輸送はされない)で、これが尽きたら戦争は終了です。現地調達では長期間の戦争継続は難しいですし。豊臣秀吉は朝鮮出兵で兵站もどきを作ったのですが、機能せずに日本軍が敗北した事は良く知られています。小田原の陣でも兵站は機能せず、餓死者が出そうになって、包囲側も大変だったという事実があります。北条側がもう少し粘れれば、粘り勝ちになった可能性が高かったそうですよ。
作者からの返信
白狐姫と白狐隊様詳細なコメントありがとうございます。<(_ _)>😊古代中国の歴史上の兵力や手柄が大げさで数字的に当てにならないというのは有名な話で私も昆陽の戦いの100万とか赤壁の80万とか孔明北伐の34万とかは盛りすぎだと強く思います。ただ、この趙軍40万については記録がそうした流れと違う感じがするんですよね。私も歴史素人なので強くは言えませんが、前後の流れを見たりすると数字を盛る必要もない感じで、むしろその通りに解釈した方が自然な感じがします。当時の趙の人口が300万として、そして非戦闘員込みで自国及び同盟国の防衛となると40万きっかりいるかどうかはともかく半分以下となるとそちらの方が現実的ではない気もします。もしこの実数が少ないとすれば、趙はその分援軍を出す余裕があるということになるので白起の包囲自体が成り立たない戦術ということになります。でも実際には長期間にわたり包囲をし、兵糧がなくなるまで包囲が続けられていて、しかも趙括たちが自殺覚悟の突撃をするくらい追い詰められていたということは趙の全軍というのは大げさではなかったのではないかと。ある方のご意見だと15万程度というらしいですが、仮にそれでも相当なものだったと思います。また秀吉の鳥取城の顛末を見ても生き残ったのは記録に近いごく少数だったのではと推測します。ここで触れたかったのはよく軍事用語である全滅のように実際は全体の数割という損害で後は逃げたというよりも軍団丸ごとざっくりいったのではないかという所に注目してみました。まあ、この話の本編は趙括という人物を総司令という地位につけたプロセスを知ってもらうことにあるので、ここで我意を押し通すつもりはありません。(笑)豊臣秀吉のくだりは最近よく話題になる所ですね。同様の話は太平洋戦争のアメリカについても指摘されます。たとえ、タイミング的に紙一重でも勝利したという事実は変わらないのでなんとももどかしいです。同様の指摘は秀吉の九州征伐でもあったのであと少し!というご指摘はロマンを感じます。(なお、アメリカの場合は原爆とソ連参戦という要素もあったのでそれこそ夢想でしょうが、ただ朝鮮戦争での米国の明らかな弱体化を思うとなんだかな~、もっと日本の時もそれぐらいグダグダでいて欲しかったような)北条も島津も自領を要塞化していましたので長期的な戦が出来るという可能性はどうしても魅力的ですね。
2021年9月25日 14:28
また遊びにきます😄
かず斉入道様いつもお越しいただきありがとうございます。<(_ _)>😊次もどうぞよろしくお願します。🍀😄🌟✨✨
まあ、この時代の動員人数は過大に盛られていると
思われるので、話半分以下とは思いますが…。
実際に20万人も居たら、完全包囲なんてそう簡単に
出来るものではないでしょうし、大半は逃亡したと思います。
逃げ遅れた連中が虐殺されたのは事実でしょうけど…。
いわゆる戦場でのロジスティックがそれなりに
確立されていくのは、実は20世紀に入り、
第一次世界大戦が勃発した頃だそうです。
兵站という、後方輸送部隊が出来て来るのも
ようやくナポレオンが登場する頃。
戦国時代の日本では、小荷駄で、これは戦場に
持ってくるだけ(後方から追加輸送はされない)で、
これが尽きたら戦争は終了です。
現地調達では長期間の戦争継続は難しいですし。
豊臣秀吉は朝鮮出兵で兵站もどきを作ったのですが、
機能せずに日本軍が敗北した事は良く知られています。
小田原の陣でも兵站は機能せず、餓死者が出そうになって、
包囲側も大変だったという事実があります。
北条側がもう少し粘れれば、粘り勝ちになった
可能性が高かったそうですよ。
作者からの返信
白狐姫と白狐隊様詳細なコメントありがとうございます。<(_ _)>😊古代中国の歴史上の兵力や手柄が大げさで数字的に当てにならないというのは有名な話で私も昆陽の戦いの100万とか赤壁の80万とか孔明北伐の34万とかは盛りすぎだと強く思います。
ただ、この趙軍40万については記録がそうした流れと違う感じがするんですよね。
私も歴史素人なので強くは言えませんが、前後の流れを見たりすると数字を盛る必要もない感じで、むしろその通りに解釈した方が自然な感じがします。
当時の趙の人口が300万として、そして非戦闘員込みで自国及び同盟国の防衛となると40万きっかりいるかどうかはともかく半分以下となるとそちらの方が現実的ではない気もします。
もしこの実数が少ないとすれば、趙はその分援軍を出す余裕があるということになるので白起の包囲自体が成り立たない戦術ということになります。
でも実際には長期間にわたり包囲をし、兵糧がなくなるまで包囲が続けられていて、しかも趙括たちが自殺覚悟の突撃をするくらい追い詰められていたということは趙の全軍というのは大げさではなかったのではないかと。
ある方のご意見だと15万程度というらしいですが、仮にそれでも相当なものだったと思います。
また秀吉の鳥取城の顛末を見ても生き残ったのは記録に近いごく少数だったのではと推測します。
ここで触れたかったのはよく軍事用語である全滅のように実際は全体の数割という損害で後は逃げたというよりも軍団丸ごとざっくりいったのではないかという所に注目してみました。
まあ、この話の本編は趙括という人物を総司令という地位につけたプロセスを知ってもらうことにあるので、ここで我意を押し通すつもりはありません。(笑)
豊臣秀吉のくだりは最近よく話題になる所ですね。
同様の話は太平洋戦争のアメリカについても指摘されます。
たとえ、タイミング的に紙一重でも勝利したという事実は変わらないのでなんとももどかしいです。
同様の指摘は秀吉の九州征伐でもあったのであと少し!というご指摘はロマンを感じます。
(なお、アメリカの場合は原爆とソ連参戦という要素もあったのでそれこそ夢想でしょうが、ただ朝鮮戦争での米国の明らかな弱体化を思うとなんだかな~、もっと日本の時もそれぐらいグダグダでいて欲しかったような)
北条も島津も自領を要塞化していましたので長期的な戦が出来るという可能性はどうしても魅力的ですね。