テレビ放映戦国大名総選挙その71 織田信長
北陸で領主を追い出し、国を作った一向宗、戦国の最盛期には恐らく信長と並ぶ動員人数を誇り、天下に大きな影響を及ぼす存在でした。
この章の話はそうした最盛期の時のころの北陸とその後の衰退について説明していきます。
前に説明した通り、織田信長は全力で一向宗と戦い、当時特に一向宗が強かった3か所のうち、一つはほぼ無力化、一つは殲滅戦により消滅しました。
残った最大の拠点が北陸でした。
ここから先は長い話になりますが、政治勢力としての一向宗がどうなっていったかを知る上でとても重要な話なのでお付き合い願えればと思います。
まず、織田信長が朝倉家を滅ぼしたところから話は始まります。
信長は桂田長俊(前波吉継)という人物を守護代に据えて、朝倉の領地の政治と軍事を任せることにしました。
しかし桂田長俊はもともと地位が高いわけではなく、富田長繁などはもともと不仲なため対立していました。
そして、桂田長俊が傲慢な態度だったために領主達も住民達も怒りが爆発し、ついに反乱がおきました。
この戦いはあっけなく信長推薦の桂田長俊が敗死しました。
これで終わりかと思えば、今度は富田長繁と住民達との間で不信感が広がります。
富田長繁がとある領主をだまし討ちしたことでその人間性に不信感が持たれました。
その後、富田長繁が信長に降るという噂が決め手となって住民達は戦うことを決意します。
その時に隣の加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領としました。
さて、加賀の国と言えば越後が近くにあります。
そしてあの上杉謙信と戦った経験のある集団です。
もうこれだけでいかに恐ろしいか想像がつくと思います。
こうして、越前の混乱から始まったこの騒動は一向宗が主力となりました。
富田長繁も何もしていていないわけではなく味方を集めました。
その味方とは浄土真宗本願寺派(一向宗)に対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等でした。
まあ、キリスト教や仏教など他の宗教を考えると違和感がないでしょうが、浄土真宗にもいろんな派がありこの時点でもう大混乱の様相を呈していたと言えるでしょう。
つづきは次の章でと思いますが、補足として。
このころ織田信長は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺と多方面にわたって戦闘をしており、この地域を事実上放棄していました。
信長ファンの皆様はもう少しお待ちください。
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