テレビ放映戦国大名総選挙その72 織田信長
前回は織田信長が手が出せない状態での越前についてお話しました。
簡単に言えば、富田長繁が本願寺以外の地元の浄土真宗と手を組み本願寺系の一向宗と戦うという構図になりました。
初めのうちは富田長繁方が優勢で戦闘に勝利していたのですが、あまりに無理に攻めていたために味方から裏切り者が現れます。
なんと最後は裏切りによって味方から殺されるという何とも言えない形でこの戦は終了しました。
こうして、この時点では一向宗本願寺派が勝ち越前を支配することになりました。
こうしてめでたしめでたし、とならなかったのが歴史というものです。
本来織田信長はこの時点ではおらず、一向宗の国なのですから、さぞや理想的な国と政治が行われただろう、当時の狂信的な一向宗門徒であればそう考えたはずです。
しかし、実際はその逆と言っていい事態になりました。
一向宗の指導者達は領民達に以前よりもはるかに高い税を要求するようになりました。
ここまで戦って勝ち取った自治です。
多少の不満なら何とかなったはずです。
所が、何とかならないほどの重税だったようで一向一揆勢に対しての一揆が頻発して起こるようになります。
こうして、一揆勢は内部から崩壊しました。
そして、さすがというべきでしょうか。
このタイミングで織田軍は3万の兵で越前に攻めてきました。
この時期は伊勢長島の一揆と武田勝頼との決戦をともに勝利してやっと越前に兵を向ける余裕が織田信長に出来たのでした。
この一連の戦いは伊勢長島の激戦がうそのように信長方の勝利で終わります。
上杉謙信と戦うほどの優れた武将でも、悪政を敷いて民衆の心が離れてしまうと実にあっけなく弱くなってしまいました。
そして、信長軍は容赦がありませんでした。
伊勢長島のような川に囲まれた城ではないので大規模な兵糧攻めはなかったようですが、容赦のない戦闘と虐殺が行われました。
とはいえ、信長の治政が及ばない短い期間でも仲間割れやら一揆やら一揆中の一揆やらでまとまりがなかったので生かしておいてもまた反乱を起こしていた可能性は高かったかも知れません。
一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。
資料にはこう書かれていました。
資料の数字が正確かどうかはともかく北陸一向宗はこうしてほぼ鎮圧されました。
なお、加賀の一向宗もこの後信長配下の武将に攻められ、その勢力をほぼ失うことになります。
さて、次の章では一向宗についてのまとめと信長の治政への影響について書いていく予定です。
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