テレビ放映戦国大名総選挙その70 織田信長
さて、織田信長は虐殺によって伊勢長島の一揆を排除しました。
文字通り皆殺しです。
少し時間は遡りますが、この約三年前には比叡山焼き討ちがありました。
天台宗という宗教団体と織田信長との戦いです。
きっかけは領土問題でしたが、朝倉、浅井との争いに延暦寺が巻き込まれたことで大事になり、信長と戦うことになりました。
信長は不利を悟り、正親町天皇の調停により和睦しました。
しかし、わずかの時間稼ぎにしかならなかったようです。
天台宗側は信長との和平条件を無視したりして、彼を侮るかのような行動に出ました。
当然、信長は彼らを許すはずもなく、軍勢を率いて攻め寄せました。
その怒りにようやく気付いた天台宗は黄金を送って戦の回避を目指しますが今度は信長が許しません。
実は信長側からすると、この比叡山は戦略的に重要な場所で、安定しないととても困る場所でした。
敵になることはもちろん、どっちにつくか分からない中立でも大変不便なため、一気に片を付けることにしたのです。
かの有名な比叡山の焼き討ちについてですが、当時の歴史資料の中にも公家の日記などでその残酷さは記録に残っています。
私達がよく大河ドラマや漫画などで知る魔王信長のイメージもこの歴史的資料やそれを引用した多くの作家さん達の情報の流れから来たものと思われます。
当然史実と捉えている方は多くいると思います。
ただ、現代の見解だと微妙にそうした流れとは違う姿もあるようです。
分かりやすく書くと、別の資料などでは沢山の人を焼き、殺したのは事実だが、一方で多くの捕虜を捕まえていたり、戦の途中で脱出した人も多く死者の数も千人~四千人位とされています。
また、比較的最近の発掘調査では焼き討ちとされたものの多くが実は以前からのもので信長主導の焼き討ちの被害は言われるほど大したことがなかったという見解もあります。
こうして見ると、この比叡山の焼き討ちに関してはかなり信長の残虐なイメージが誇張されていた可能性があります。
それは、当時の天台宗が政治的力をある程度持っていて、公家や大名達とある程度親密な関係にあったことも影響しているかもしれません。
武田信玄などはこの出来事を非難して延暦寺再建という大義名分を得ようとしたそうです。
一方で仏門にあるまじき所業として当時から僧侶達に対する風紀の乱れを非難する声もあり、最後は焼き討ちによる一方的な結果でしたが、その前までは政治闘争のような側面もあったようです。
ただ、織田信長のこうした一連の行動が比叡山の悪習を炎もろとも浄化した一面はあったようです。
信長の死後にはこうした政治闘争はおさまり、こうした悲劇は起きなくなったのは何とも言い難い歴史の流れだと思いました。
次の章では一向宗の話に戻ります。
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