テレビ放映戦国大名総選挙その50 織田信長
織田信長と言えば、楽市楽座、鉄砲の普及、槍衾と長いやり、能力主義、鉄甲船、
髑髏の盃、桶狭間の戦い、朝廷に対しての尊王の士、逆に朝廷を超えて自らを神とする野心家、一向一揆や延暦寺に見る宗教勢力に対する弾圧、キリスト教に関する関心の高さと保護、甘い物好きなどパッと思いつくだけでこれだけ出てきます。
上に挙げた信長像はすでに昭和の時期には提唱されていたもので、いかに信長が個性あふれる存在かを如実に表しています。
とりわけ、彼の即断即決という姿勢は天才、そして革新的な人物を不動のものとするに十分なものでした。
織田信長という人物は昭和の時代には主に主役として扱われました。
それは輝かしい英雄としての扱いであり、今でいうところのアイドル、それもけがれなき存在に近い扱いでした。
なので、上記の出来事についても、基本的にはかっこよかったり、悪を打ち倒すようなイメージで演出されたため、信長嫌いというのはあまりいませんでした。
もともと、織田信長は悲運の武将であり、その後継者となった豊臣秀吉の時代も彼の後継であることが支配の正当性を与えるものだったため彼は崇拝の対象でした。
そして、徳川家康も彼の同盟者ということを宣伝することで自らの権威に箔をつける意味から信長を高く評価するような空気を醸しだしていました。
そして、後世に大きな影響を与えたのは太田牛一の書いた『信長公記』(しんちょうこうき)です。
彼は元織田家の家臣で、織田信長を英雄として表現する一方、歴史的に起きた事実については批判はしないものの淡々と事実を書くという姿勢を取りました。
そのことが、織田信長をより正確にしかも詳しく後世に伝えたために、後の人たちも信長に関する創作などを書く時にとても参考にしたと思われます。
意外に思う方もいるでしょうが、歴史創作というのは資料がたくさん残っていた方が、より書きやすいという面もあります。
元となる歴史的事実がないと脚色しにくいという面もあります。
この太田牛一のような事実を書いてくれたおかげで、変な遠慮をせずに信長関係の書物が書けるというのが相当人気に影響したのではと思います。
これは以前も書きましたが、崇拝者がいて悪く書いたり、脚色できない人物は書く方からすると敬遠されるものです。
そしてそれによって知名度が下がるわけですから結果としてその人物の名声も下がることになります。
その点織田信長はフリー素材と言われるほど自由に表現できるので誰でも知ってる身近な歴史人物になりました。
さて、次の章では今現在の織田信長についての歴史的考察について紹介したいと思います。
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