テレビ放映戦国大名総選挙その38 武田信玄
武田信玄の上洛は有名なエピソードです。
正確に言えば上洛のために今まで率いた中で最大の3~4万の兵力で織田徳川連合軍と決戦を行う予定でした。
そしてそれは徳川家の領内である三方ヶ原の戦いという形で部分的に実現しました。
徳川家康率いる三河の主力部隊と織田信長が援軍として派遣した軍勢が武田信玄の主力と戦い、そして完敗しました。
この時織田信長は足利義昭と険悪な関係となり、京都から動けない状況でした。
こうした状況から武田信玄にとって絶好のチャンスであった。
昔から、このように伝えられ、多くの大河ドラマや書籍でもそのように説明されてきました。
しかし、近年の研究では武田信玄は上洛を目指していなかったという説が現れ、このロマンあふれる筋書きについて疑問の声が上がっているそうです。
どちらにしても、歴史の事実として残ったのは、この後信玄の病気が悪化したために途中で軍勢は引き返したこと、そして武田信玄はそのさなかに亡くなったという事実です。
こうして、武田信玄亡き後息子の勝頼が後を継ぎます。
彼は彼なりに戦争で威信を回復しようと努力しました。
彼の戦闘センスは信玄よりも上という評価があった時期もありました。
そして外交でも上杉や北条や佐竹といった勢力とうまくやろうと画策しました。
さらには織田信長とも関係を良くできないか努力もしました。
しかし、結果だけを見れば、北条とは途中で険悪になり争いが復活しました。
上杉は内輪もめのため味方としてあてにならず、信長や家康に関してははじめこそ軍事的に優位でしたが、すぐに国力の差が現れて劣勢になりました。
そして、今まで信玄の時代にはうまく差配していた家臣団との関係も、戦争による負担の増加により険悪となっていきました。
信長との和睦も以前の信玄の時代に行った不義理を信長が根に持っていたためにまるで相手にしてもらえませんでした。
信玄の軍事的な優秀さと外交面での強欲なまでの成功と家臣団に対する優れた統率力がすべて裏目になって勝頼と武田家に帰ってきてしまいました。
以前私は島津日新公いろは歌で、反面教師として武田勝頼を紹介しました。
その点は今でも一つの見方として表現してもいいと思っています。
ですが、彼は武勇については信玄以上と警戒され、外交や家臣統率でもとても苦労しました。
こうした状況や歴史の流れを見るととても気の毒というか運がなかったと同情してしまいます。
結論として、そのような不利な地形、外交関係、家臣団の統率、そして何より織田、徳川、北条、上杉、今川など数多の強敵に囲まれながら最後まで威厳を保った武田信玄の偉大さは評価されてしかるべきと私も納得しました。
皆様はどのように感じたでしょうか。
次の章では大河ドラマと武田信玄についていろいろ考察したいと思います。
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