戦国時代における島津宗家の移り変わり
名門島津家、その大まかな流れは以前紹介しましたが、今回は細かく説明したいと思います。
結果としては忠良の子の貴久が当主に落ち着いたのですが、ここに行くまでに紆余曲折がありました。
そして、その権力闘争がどういう流れかを知ることは島津当主の正当性にも関わることでもあります。
では、説明を始めましょう。
まず、島津宗家は当主が二人相次いで亡くなりました。
そして3人目の当主はよその家にすでに送られた身の上だったために指導力があまりなかったようです。
武田勝頼も同じように一度分家に行き、その後本家の事情で戻ってきましたが、あまり昔からの家臣とうまくいっていなかったのと似ているような感じです。
家中の中ですら、求心力がなかったのですから当然島津以外のよその領主が従うはずもありません。
そこで、当時の当主であった島津忠兼は有力な分家であった薩州家第5代当主・島津実久に助けを求めます。
しかし、ただというわけにはいかず島津実久は次の当主を自分にするように要求します。
そして、この話し合いで両者の間の関係は決裂しました。
すると今度は宗家の忠兼は島津忠良に助けを求めます。
忠良は国政委任と自分の息子の貴久を宗家の跡取りとすることを約束することで島津実久と戦い、これを破ります。
そして、貴久が跡取りとなることが決まってから、自身は出家して日新斎となります。
こうして彼自身は息子を主君とし、自らは分家の当主として彼を補佐することになりました。
本来ならこれでめでたしめでたしと行きたいのですが、この後忠良が破った島津実久が巻き返しを図ります。
なんと今度はいままで争っていたはずの忠兼と手を結び、彼を守護と宗家の当主に返り咲くことを提案します。
そしてあろうことか、島津忠兼はこの提案に乗り、忠良、貴久親子との約束を破り敵になります。
この結果、日新斎、貴久側はピンチを迎え勢力を縮小しながらじっと耐えること数年に及ぶことになりました。
この時点で宗家は忠兼から貴久、そして忠兼と移ります。
一時期守護、宗家となったあと転落した日新斎と貴久はこの後どうなるのか、次回に続きます。
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