保守の島津、革新の島津その2
今まで紹介した資料で気づいた方もいるかと思いますが、島津忠良の家は分家の領主、しかも未亡人の母と年若き忠良の二人しかいない時期がありました。
後に別の島津の領主と結婚し、その条件として忠良を跡継ぎにするという話が決まりましたが、そこに行き着くにもいろいろと苦労があったと思います。
この時にすでに忠良は若いながらも領主としてリーダーシップを発揮しなければならない立場にありました。
彼は確かに名門島津の一員でしたが、宗家の存在もあり決して盤石な立場ではなかったのです。
そしてその宗家も力がない状態でした。
これだけ見ると島津一族全体が弱っていたように見えます。
この時期の薩摩の勢力図をみても、島津以外にも多くの地方領主がいて、勢力を競っていました。
戦国時代に多少知識がある人であれば、これは下克上の典型的なパターンで島津に代わって別の勢力が台頭するイメージが想像できると思います。
斯波と織田、上杉と長尾、足利と後北条などかつて守護や管領や公方といった肩書を持った一族がその部下や実力を持つよそ者に実権と地位を奪われるパターンです。
若いリーダー忠良は戦国時代に生き残るため、内政においては善政を、弱い立場の人々には慈愛を、強い者、優れたものにはさらにその長所を伸ばすアドバイスを与えました。
そして、力や知恵、教養や真面目さといった特質を得るように励ましただけでなく、その後にそれを自慢してはならないと自戒を与えることを忘れませんでした。
別の句では人は月の満ち欠けのようだと述べ満足することの大切さも説いています。
何度も繰り返しますが、彼は若くして領主となり、周りに味方となる目上の存在はいなかった可能性があります。
織田信長のような革新的なタイプになる可能性もありました。
ですが、彼はいろは歌で年寄りの言うことは聞いたことがあることでも初めて聞いたような接し方をして、年寄りを敬うように教えています。
彼自身も若くして力を持つことを望みましたが、その力を使うときには礼儀がいつも伴っていたように思えます。
強いし、媚びないが礼儀正しく遠慮しがち、私の感覚としてはそのように感じました。
この態度を良しとして信用したのが田布施の相州家当主・島津運久、(しまづゆきひさ)つまり忠良の義父だったと考えられます。
そして、その考えを信用できなかったのが島津宗家や敵対した島津の他の一族だったのだと思います。
次は島津4兄弟が活躍する土台となった薩摩における忠良、貴久親子の活躍をみていきましょう。
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