保守の島津、革新の島津その1
島津忠良(日新斎)の時代、種子島の地で鉄砲伝来のイベントがありました。
このイベントはほとんど何の抵抗もなく全国に伝わりました。
とりわけ、薩摩は鉄砲を多く持つことになりました。
これはある意味すごいことです。
薩摩は貧しいことは再三指摘してきました。
その貧しい台所事情の中で鉄砲を沢山装備したのです。
戦いの点で革新的な考え方でした。
ここでも島津日新斎の教えを見ると薩摩が革新的な考えを取り入れることができたことが裏付けられる点があります。
例えば、友人は気が合う友よりも優秀な友を持つようなアドバイスがあります。
優秀というのは別の表現をするなら、自分のもってない技術や特技を持っているという意味になります。
つまり新しいものを取り入れて自分のものにするように領民達にまで教育しています。
もし、薩摩が思想的に閉鎖された空間であれば許されない考え方だったでしょう。
しかし、国の指導者が率先して新しい考え方を取り入れることを進めた結果、薩摩は技術的に後れをとることがなく、むしろ戦国時代の戦において十分な戦果を上げることにつながります。
実は日新斎は自分に否定的な意見でさえ、とりあえず心で受け止めるように勧めています。
これもまた保守的思想とは異なる考え方に接してとりあえずは分析してみることを暗に勧めているのかも知れません。
別の言葉では憎い敵でもよく見ると見方によっては反面教師になるかもしれないから観察しなさいとも述べています。
とにかく、異質な考えや意見にたいして多彩かつ柔軟な受け止め方をしています。
わたしの個人的な感想だとこうした異なる意見はまるで焼き魚のように思えました。
おいしいところは取り入れて、生で食えないところは調理してとにかく無駄なく利用しようという感じで知的な捕食者のように感じました。
ここまで、革新的思考を持つ島津について考察しましたが、これからは保守的な島津について語ります。
どんなに戦国島津を奇をてらってみても、革命児とされた織田信長と同じカテゴリーに島津を入れる人はいないと思います。
なぜかをここで説明できればと思います。
まず第一に島津の目標というのが保守的でした。
それは薩摩守護と三州統一です。
つまり、信長たちと違いあくまで幕府からお墨付きをもらった土地以外には関心がなかったのです。
もちろん戦略上敵味方が分かれていて、国境線を超えることはあったでしょうが、基本的には薩摩、大隅、日向以外はテリトリー外という認識でした。
長くなりましたので続きは次の章で説明しますね。
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