ツイッター島津4兄弟総選挙その5

島津歳久(としひさ)について応援する皆様の多くが豊臣秀吉と島津の戦いの中での彼の思考と行動に心を動かされたのではないかと思います。


義久・義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗。秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家臣を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。


予め襲撃に備えた秀吉の駕籠は空駕籠にしていた為、秀吉は難を逃れたが、矢を射かけたのは歳久の家臣の本田四郎左衛門であった。


歳久は島津の降伏条件をよくするためか、それとも一発逆転を狙ったのかはわかりませんが、こうして自ら豊臣秀吉に対する最強硬派に自分を仕立てることになりました。


そして、彼自身は病のため、戦場に出ることが難しい体でしたが、今までの豊臣秀吉とのかかわりから秀吉に謀反の疑いありと見られてしまいました。

朝鮮出兵の際に彼が参加せず、しかも島津の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけ、自分の意に反し秀吉の怒りを一手に買うことになり最大の悲劇が彼を襲います。


兄・義久がやむを得ずとはいえ、歳久のもとに追討軍を送ることを決断することになりました。


彼の最後はこう記されています。

自分の兵を失うは薩摩島津の兵を失うことと、初陣ゆかりの岩剣神社に向け出港した。


付き従うは二十七人。小舟船足は遅くやがて追討軍に捕捉される歳久は、現在の「平松神社」鳥居付近に上陸、その場を、最後の場と定め切腹を決意し、追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦うことになった。


また追手も太守の実弟ということで手が出せず、歳久にはもはや刀を握る力はなく、傍らにあった石を懐刀と見立て、「早う近づきて首を取れ」と言ったのち、家臣、原田甚次が首を取った。


享年56。歳久の自害のとき、従者二十七人が殉死、討手の者たちも皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し声を上げて泣いたという


亡骸を調べると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。


しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではなく、また、付き従う兵には全く罪はないので残された家族に類が及ばぬようにという主旨の文がしたためられていたと伝わる。


辞世の歌は「晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」。

こうして彼の人生は悲しい終わりを迎えましたが、彼の死後にまだエピソードがあります。


次回は現代に伝わるお話を伝えたいと思います。




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