ツイッター島津4兄弟総選挙その6
島津歳久(としひさ)は首級を京都・一条戻橋に晒された後島津忠長によって盗み出され京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った。
このように記録されています。
豊臣秀吉の島津に対する憎しみを一身に背負い島津家を守った。
私にはそのように感じました。
また、彼が自害するときの言い伝えもとても興味深かったのでここで紹介します。
自害の折、中風により刀を握ることが出来ず、傍らの石を持って割腹せんとして苦痛を味わったとも伝えられている。
この際に「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と言ったともされており、平松神社には「戦の神」として以外に「安産の神」としても信仰されている。
またこの故に「お石様」とも呼ばれるようになった。
もしかしたら島津歳久という人物は先を見通すという能力においては島津4兄弟で1番優れていたのかもしれません。
そして、自分の意見が通らなくても、決して腐ることなく次善の手を探し協力する。
とても責任感の強い人物だったのではと思えてなりません。
生き残った島津の兄弟達や領民達も歳久の心の内を理解していたのでしょう。
豊臣秀吉がいなくなった後にはお寺を建立したり、お祭りをしたりして歳久の生前の功績を讃えています。
人気投票では一番数字の少ない歳久ですが、戦国時代にお家のために全身全霊をもって生き抜いたその生きざまはコアなファンを生み出しました。
もし、戦国島津で大河ドラマが実現したときは彼の生きざまを見て多くの人々が感動することになるでしょう。
最後に蛇足ですが、私の小説で架空の地名として登場する、「宮之城市」市としての地名ではありませんが宮之城という地名はかつて存在していました。
私としては宮崎県都城市の古いいいまわしを用いたつもりでしたが、鹿児島の地名で最近まであったことはこの小説をかなり書き進めてからとある読者様に教えていただきました。
次回は4男の島津家久について紹介したいと思います。
お楽しみに。
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