第228話 武田信玄と毛利元就といろはの「す」
少しきを 足れりとも知れ 満ちぬれば 月も程無く 十六夜(いざよい)の空
現代語訳
ちょっと少ない程度で、十分と思いましょう。
月も満月になれば、あとは欠けていくばかりではありませんか。
ほどほどにして足ることを知ることです。
「長期連載予定 島津いろは歌と歴史」から始まった島津日新斎いろは歌ですが、ついに最後の章となりました。
最後の章はそれにふさわしく、人生で充実した時、大いに勝ちまくった時、調子に乗った時に大事な自制のアドバイスです。
武田信玄は戦いにおいて五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生ず、と述べています。
これはほどほどの勝ちであれば警戒心を解かず、七分になれば油断を生じ、完勝すれば敵を侮り、味方を過大評価する、と言い換えることができるかもしれません。
ちなみに別の時には40代以上になったら勝つことより負けないことを心掛けるよう言葉を残しています。
どちらも孫子を勉強し、自らの人生で使いこなしてきた武田信玄らしい言葉です。
実は武田信玄、何度か危ない戦いを経験しており、その時には自分のもり役(爺やみたいな感じ)や弟や多くの家臣を失っています。
どうも、そのような時の前に信玄は油断をしていたと後で思い返したのかもしれません。
個人的には信玄が何度か似た発言をしているところを見ると自身の経験と痛みから出た言葉ではないかと思います。
毛利元就も興味深い言葉を残しています。
「われ、天下を競望せず」
毛利元就といえば220を超える合戦に参加し、謀略をもって中国地方を席捲した名将です。
元就が亡くなる年の1571年、その石高は150万石前後、当時織田信長はまだ近畿に手を付けようかという段階で戦力に大きな違いはありませんでした。
それでも彼は天下を望まない意思を示して、子孫たちもそれに従いました。
この後、武田信玄の後継者である勝頼が滅亡したことを考えると、あらかじめこの言葉を残した元就の慧眼には恐れ入ります。
ちなみに作者の個人的見解では、元就の場合は「転ばぬ先の杖」的な発想だったのではないかと思います。
元就の場合、相手は多くの場合格上であり元就は敵の油断と隙を狙って戦ってきました。
彼は常に失敗は許されない弱小な立場で戦国を生き抜いてきたため、おのずと己の姿勢をかがめて、小さく見せるようにしたのかもしれません。
だとすれば、天下を狙うというのはリスクが極めて高い選択肢であり忌み嫌っていた可能性もあります。
毛利元就はその慎重さから、武田信玄は経験と学問からそれぞれ有頂天にならないようにアドバイスを残していきました。
さて、その後毛利の子孫は早めに秀吉に下り、信玄の息子は最後まで戦い滅亡しました。
島津の子孫たちはどうなったのでしょうか。
彼らは豊臣秀吉と戦う前、九州統一を目前にして、有頂天でした。
彼らは引くことなく豊臣の大軍と戦い大敗します。
しかし、ここでやけにならずに隠忍自重、島津義久は降伏を決意し、まだいけると血気盛んな弟や家臣たちを何とかまとめ豊臣秀吉に許しを乞うことになりました。
その後、多くの苦難を経ながらも戦国時代を生き残り、幕末から明治の大躍進へとつながるのです。
月も満月になれば、あとは欠けていくばかりではありませんか。
ほどほどにして足ることを知ることです。
この言葉を島津義久は胸に秘めていたからこそ出来た決断ではないか、そしてそれが薩摩を救ったのだと私は感じました。
島津日新斎いろは歌の最後の章、皆様はどのように感じたでしょうか。
そしてここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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