第227話 ダビデ王といろはの「せ」
善に移り 過(あやま)れるをば 改めよ 義不義は生(うま)れ つかぬものなり
現代語訳
もし過ちがあったと気づいたら、ためらうことなく直ちに、正しい方向にやり直せばよいのです。
義とか不義とかいうものは、人間の生まれつきのものではありません。
どんな人間にもあることなのです。
この言葉では面白い表現があります。
それは義と不義は生まれつきではない、という表現です。
つまり人間はどちらの要素も持っているということです。
実はこの考え方を聖書の考え方と比べると面白いことに気づきます。
聖書によると人は不完全な状態のアダムから罪を受け継いだとされ漏れなく不完全であるとされています。(ただし、イエス・キリストだけは除きます)
そして、聖書の中で義人といわれる人々もこの不完全な人間の中でより優れているという意味であり、完璧で罪を犯さない人間とは言ってません。
その上でダビデ王という旧約聖書で有名な義人について書きたいと思います。
彼はイスラエルの王であり、その生き方は神の目から見ても模範的でした。
しかし彼はあるとき、とても大きな罪を犯します。
彼は部下の妻を奪い、しかもそれを隠すために夫を殺すように仕向けました。
このような行為は当然、神の目に留まり神は預言者を遣わしてその悪事を暴きます。
ここで彼はすぐに罪を認め更生しました。
この時、彼が今までの名声や尊厳にこだわり、さらに罪を隠すという選択肢もあったと思います。
しかし、彼はそれをせずその後は自分の道を誤らずに立派な王となりました。
ここで、皆様の中には疑問に思った方もいるかも知れません。
神はダビデにたいして甘いのではないか?
実は彼はこの後、多くの災いが臨むことを神の預言者に告げられていました。
中でも家庭内の災いは容赦がなく、彼の息子が謀反を起し、何とか助けようと努力しますが、その願いは叶わず息子を死なせます。
また、それに伴って国内も混乱しました。
しかし、ダビデはその災いと混乱の中でも正気を保ち、人として出来る限り義に適った選択を行い続けました。
それゆえ、重大な罪を指摘した神も彼の努力を認め、彼を義人と認めて後世に名を残すよう聖書に記したとされています。
島津いろは歌にある、義と不義は誰にでもある、だからこそためらうことなく、正しい方向にやり直せばよい、というのは実はとても難しく、また簡単なことです。
難しいというのは、ダビデがしたように、また数多の人々が行ったように人は大きな罪を犯すとそれを隠そうとしたり、なかったことにしようとします。
ですが、その処理の仕方が稚拙であったり、卑怯であったりするともっと状況が悪くなります。
そして、簡単な事というのは、あらかじめいろは歌のこの章を頭と心にとどめた置けば、取り返しのつかないことと取り返しのつくことを冷静に見極めて、冷静に行動することが出来ます。
例えば、仕事の失敗でパニック状態で処理をするのと、冷静に失敗を見極めてその後をリカバリーするのでは結果が天と地ほどの差が出るというものです。
それと、この内容を当時の島津の中心であった日新斎が記したのも見逃せないポイントです。
例えるならば、社則に記したようなものだからです。
後世、薩摩人は物事に動じないという評価を受けていますが、もしかしたらこの日新斎の教えと以前学んだ挑戦することを推奨する教育の賜物かも知れませんね。
今流にいえば、「ドンマイ!次頑張ればいいさ」という感じでしょうか。
失敗しても負けても、絶望的な状態でも立ち直るための貴重な教え、皆様はどのように受け止められたでしょうか。
※厳密には島津日新斎とキリスト教の教えは異なる点がありますが、方向性の点で似た指摘と感じましたので今回紹介することにしました。
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