応援コメント

第227話 ダビデ王といろはの「せ」」への応援コメント

  • また読ませて戴きます✨🤗✨✨✨

    作者からの返信

    オズ研究所 《《#横須賀ストーリー紅白様いつもご愛読ありがとうございます。
    <(_ _)>😊

    人は誰しも例外なく間違いを犯しますが、そんな間違いを犯した後のお話ということで私自身も柔軟な頭と心を持てたらと思うお話でした。

    またのお越しを楽しみにしています。😄🍀🌟✨✨


  • 編集済

    今日も興味深い内容でした。

    ところで、キリスト教は原罪という教義で、すべての人間は罪人であるということだと思います。アダムとイブは蛇にそそのかされりんごを食べることで原罪をおう。

    不完全というより、罪を全面に書かれたほうが、クリスチャンの?はないかもと思いました。

    「聖書によると人は不完全な状態のアダムから罪を受け継いだとされ漏れなく不完全であるとされています。」
    「人はすべてアダムとイブの罪を背負う、罪人」と、普通は教会で神父さまから教えられます。

    ここですけど、すみません、私が聖書で読み逃してるのかもしれませんが。新旧合わせて聖書は長いですから。


    追記:大目なんて、そんな。このままでも大丈夫だと思います。たまたま聖書は欧米文学を読むに必要な知識で読んでいたという理由があったので、このままで大丈夫と思います。かえって、ごめんなさいね。

    作者からの返信

    アメリッシュ様、正確なご指摘ありがとうございます。
    正直なところ、厳密には神道、禅宗、儒教をベースとする日新斎とキリスト教および旧約聖書は異なります。

    ただ、、一般の方に対してあなたも罪人ですよ、というスタンスで行くとちと宗教っつポイというか説教臭いのでこうした表現になりました。

    ダビデを紹介しつつ、義、不義、完全、不完全、の定義についてはいろは歌に照準を合わせたような感じです。

    それは、人間は皆生まれた時は完全な義人ではなく、不完全で矯正不能な不義の人もいない、今後の気の持ちようで人生を決められるというメッセージです。

    キリスト教の場合、神に信仰を持たず、イエスの犠牲を受け入れない場合、全員不義の人で最終的には救われないというのが教えの根幹かと思います。(宗派によって違いがあるとは思いますが)

    たいして、今回の章では普通の人々が失敗してもそれを認めすぐ方向転換することの大切さを伝えたいと思いました。

    なので、キリスト教の方には、異教の人が勘違いして書いているなくらいに寛大にとらえてもらえたらと思います。

    なお、たしかパウロだったと思いますが、神(この場合一神教の彼らの信じる神)を知らない諸国民もその元からある良心に従って生きている。
    そのようなニュアンスの聖句があったかと思います。

    いずれにせよ、キリスト教の原罪という要素を外し、その付加的要素である不完全というところから話を立ち上げているので、アメリッシュ様の見解は正しいと思います。

    その上で大目に見ていただけると嬉しいというか助かります。
    今後もお気づきの点がありましたらよろしくご鞭撻のほどよろしくお願いします。
    ありがとうございました。

    PS アメリッシュ様、長文をお読みいただき返事までいただきありがとうございます。
    宗教の話になると専門的な知識が重要ですので、こうした指摘はとてもありがたいと思います。
    今回の内容も20~30年前ならキリスト教徒の方からクレームが来たかもしれません。
    他の所と一緒にするなという感じで。
    なので、こうして親切に指摘していただいたお気持ちと内容は貴重なものだと感じています。
    あらためてありがとうございます。








    編集済
  • ダビデの名前を見て朝からテンションが上がりました。(^^)

    適用が分かりやすいです。失敗してもダビデのように心から悔い改めて、更正したいと思います。

    もし、最悪車で人を傷つけてしまった場合、自分はどう行動するだろうかと考えます。ひき逃げ犯になるのか……本質は自分でも正直分かりません。その場になって初めて試されると思います。
     行動が義が不義かで結果は天と地の差。ダビデの生き方を当てはめたいと思います。

    教訓的なお話いつもありがとうございます。(^^)

    作者からの返信

    星都ハナス様ありがとうございます。

    この話はきっとハナス様に伝わる内容だと思って書きました。
    一見すると律法により完璧主義を求める旧約聖書の時代において罪を犯す人間がどのようになるのか、あるいはどうすべきなのかを示す素晴らしい事例です。

    薩摩の軍法も厳しいのですが、時々軍法を破っても見逃す事例も記録されています。
    情けというものでしょうか。

    偶然なのか真理だからなのか、日新斎の人は生まれながら義、不義はないという考え方と聖書の人間は皆不完全でもくいあらためることができるという考え方はよく似ていると感じました。

    自動車事故の例えは心の揺れ動き方を考えると適切な例えだと思います。
    失敗をするすべての人に読んで考えてもらえたらと思う内容でした。
    どうもありがとうございます。


  • 編集済

    失敗したり、窮地に立たされた時ほど人間性がでますよね。
    なるほどなと考えさせてくれる内容ですね…

    作者からの返信

    雪うさこ様コメントありがとうございます。
    ご指摘の通り、窮地に立たされるとその人の人間性。本性があらわにされます。
    失敗すると脆い人間というのは沢山いると思いますので、とてもためになる内容だと私も思いました。

    どうもありがとうございます。