こんにちは。
北条執権家って、ひたすら血みどろの政争に明け暮れていたイメージがあります。
源将軍家を滅ぼし、帝すらも打ち破り、あらゆる政敵を葬り、果ては身内すらも……
で、滅ばされた畠山、三浦、他諸々は足利家が保護したので、末期はそう、なるよねって(^◇^;)
作者からの返信
上野文様コメントありがとうございます。<(_ _)>😊
歴史の評価とは多面的で難しいなと思います。
北条の血の罪は確かに高く積みあがるほどの業であり、最後があのようになったのもそうした積み重ねの結果と見るのも自然かもしれません。
一方で源氏将軍や他の有力な豪族よりも長きにわたり栄華と権力を掌握していたことも厳然たる事実で評価してもよい業績だと思います。
権力を持つものは手を汚すのはある程度自然であると私は考えているので全体として見た得宗家の評価は高く見てるかもしれません。
でも、権力はいずれ腐敗するという鉄則を鑑みると上野様の見解も当然かと思います。
そして、こうした権力の腐敗に対する保険として権威としての天皇の存在が大きいというのが私なりの考えでもあります。
話が脱線しましたが、歴史の多面性は難しいというのが正直な感想です。😅
また読ませて戴きます✨🤗✨✨✨
作者からの返信
オズ研究所 《《#横須賀ストーリー紅白様いつもありがとうございます。
<(_ _)>😊
またのお越しを楽しみにしています。🍀⭐✨🌟😄
北条家って、現代からみると地味ですよね。
確かに、モンゴルの襲来を祈りで抑えましたけど。
でも、地味ってことは、わりと平穏な時代でもあったということで、逆になかなかデキる人たちだったんじゃないかと思います。
作者からの返信
アメリッシュ様コメントありがとうございます。
仰る通り、北条家は地味ですが政治滞りなく行う点では極めて優秀だったとおもいます。
得宗家は別の言い方で徳宗ともいい仏教と密接な関係にありました。
恐らく、そうした教えの影響の分だけ、鎌倉武士の中でも穏健で理性的だったのではと推測します。(あくまで武士である点は注意)
得宗家は代々出家しており、官職などの権威を過度に求めず、あくまで幕府の執事としての役割を果たすという点では官僚に近かったかもしれません。
いずれにしても御成敗式目を制定し、幕府の秩序を長年守った手腕と自制心は特筆すべき優れた点だと思います。
一言でいえばデキる一族だったという点に私も同意します。
ありがとうございました。
北条家が存続した理由が分かりました。
お友達に北条家出身がいます。
(アントニオ猪木さんと同級生だったとか)
戦後、かなりの土地資産を政府に……。
とても品のある方です。(^^)
作者からの返信
星都ハナス様いつも応援ありがとうございます。
都城島津家もそうですが、敗戦後ごっそり土地や資産を持っていかれたようですね。(お気の毒です)
北条氏は得宗家以外にも沢山の分家がありましたが、激動の時代に生き残ってよかったですね。
個人的な疑問なのですが、戦国時代伊勢新九郎(北条早雲)たちが活躍した戦国時代、本物の北条氏ってどんな様子だったのかと不思議に思いました。
北条一族は切れ者で人格者が多いイメージなのですが、末裔の方と面識がある星都ハナス様がうらやましく思いました。
どうもありがとうございます。
どーしても時の流れと共に、権力の腐敗は避けらねないですよね。
でも戦国期の後北条家が、北条を名乗ったのは、北条得宗家は庶民的には良かったって思いが有ったのかと妄想します。
後北条家は、得宗家の血筋の方を、嫁に迎えてるはずです。多分。
作者からの返信
いつき ふみと様夜中の貴重なお時間に御愛読、コメントをいただきありがとうございます。<(_ _)>😄
御指摘の通り、庶民的にはある種昔の理想の支配が北条にはあったのかもしれませんね。
後北条家と今回紹介した得宗家のつながりはなんかもやもやしていて触れるのが難しいなといつも感じています。(笑)
私もどこかの資料(小説ではなく)で後北条家は血縁があると見た記憶があります。
権力の腐敗が不可避の出来事であると同時に、一度滅んだ北条が伊豆、相模で復活するのも歴史の面白さかなとふと思いました。