第195話 薩摩の戦史といろはの「ふ」

前回学びました、無勢でも侮るな、多勢でも恐れるなという言葉と長州征伐のことを調べてみた時に、面白いことが書いてありました。


実はこの長州征伐、第一次と第二次があり、第一次は戦闘が起きる前に講和になったのですが、この時西郷隆盛が幕府軍に加勢する薩摩軍の参謀として参加していました。


そして、第二次長州征伐の時には薩摩軍は参加はしませんでしたが、しっかり戦闘は研究していたようです。

そこで西郷がだした結論が、自軍(薩摩)1に対して幕府軍は10であるという見積もりでした。


この話の面白い点は、薩摩はちゃんと相手の戦力をデータから見ているということです。

漫画やアニメの世界みたいに少数でも負けないよ、とか相手が大軍でも気合で勝てるとか、そんなノリで戦っているわけではないということです。


ドラマとか本を読むと西郷隆盛という人物が人格的に立派とか徳がある人物という形で紹介されますが、彼の持つ能力に軍人として、あるいは参謀としての計算能力というのも見逃せないところだと思います。


ちなみに明治の時期に初の陸軍大将となったのは西郷隆盛です。

それと、大将になる前に元帥になるという変わった経験もしていたようです。


さて、こうして西郷参謀の計算などを見ると、いろは歌で伝えたかったのは戦う前に表面的な戦力を見て怖気づいたり、逆に相手を侮ったりしないようにきちんと戦力分析しなさいよ、そういう趣旨のアドバイスなのではと個人的には思いました。


よく耳にすることですが、薩摩の軍法では退却は死罪といいます。

確かにこの軍法は存在し実際軍紀違反ということで殺された人もいることでしょう。

ですが、敵が大軍でも恐れず戦えといういろは歌の表面だけをなぞった場合、いつか強い大軍と戦ったときに手痛いダメージを受けます。


例えば、以前ふれた武田勝頼は戦で連勝だったため、長篠の戦いで引くタイミングが遅くなり、多くの優秀な家臣と兵士を失い滅亡しています。

さて、戦国時代の島津家の戦闘を振り返ってみましょう。


確かに島津義弘や家久が戦ったときには相手が大軍で味方が少数という例が度々ありました。(木崎原の戦い、耳川の戦い、泗川の戦い、関ケ原の戦い、沖田畷の戦い等)


ただ、島津家の実質的な大将は義久だった時期が長くつづいていましたので、前述の戦いはあくまで部将の戦ということになります。


大将である義久が戦場に出る戦いには島津も動員できる限りの兵力を集める場合が多かったのです。

こうしたことからも、戦う前にきちんと相手の戦力も計算して戦い、どんな戦いでも油断も恐れもないベストな環境で戦ったと考えられます。


とはいえ島津も大失敗したことがあります。

九州征伐の時に根白坂の戦いで島津は完敗を喫しています。

この時、 宮部継潤が1万の兵で砦を守り、島津は恐らく大軍をもって攻め寄せましたが、ついに砦はおちませんでした。


そして、藤堂高虎や小早川、黒田といった優れた軍勢が砦を落とせず弱体化した島津に襲いかかりついに大敗を喫してしまいました。

一節ではこの時の島津勢は35000とされ、決して少数ではなかったですが豊臣軍の物量と戦略には及ばなかったと言えるでしょう。



「大軍を恐れるな」という威勢のよい言葉の前に隠れがちですが、「少数とて侮るな」という言葉も島津を学ぶ上で(今回の場合は反面教師として)大事な要素だと強く思いました。


読者の皆様がもし重要な決定を下すとき、この章を思いだしてお役に立つことが出来れば幸いです。








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