第189話 細川藤孝(幽斎)といろはの「や」

和らぐと 怒るをいわば 弓と筆 鳥に二つの 翼とを知れ


現代語訳

和らぐことと怒ることとは、文と武のようなものです。

丁度、鳥に二つの翼があるように、学問、芸術に優れた者は、同時に武芸にも秀でているということを覚えておきましょう。


ここで声を大にして言いたいのですが、島津は決して「脳筋」ではありません。

今回紹介する細川藤孝(幽斎)は島津脳筋説を否定するうえで格好の人物です。

細川藤孝は初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その後も足利将軍家の近くで仕えました。


彼は和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人、つまり「文」学問、芸術のスペシャリストでした。

それだけではありません。


「武」についても。剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘、吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示しました。


膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もあり、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたと伝えられています。


しかし、彼の文武両道は個人の能力レベルでは留まりません。

彼は関ケ原の戦いの直前に西軍の攻撃を受け、丹後田辺城を守ります。

敵の軍勢は約15000、それに対して彼の軍には500足らずの兵と城のみ、どう考えても瞬殺です。


ところがこの戦い、二か月近く続きました。

なぜでしょうか、理由は大きく二つあります。

一つは藤孝の軍の戦意が強く降伏をすぐに受け入れなかったことがあります。

でもそれだけではありません。


大きい要素となったのは彼の持っていた「文」の部分でした。

具体的には『古今和歌集』の奥義を伝授されていたため、彼を失うと歴史的な遺産を失うという恐ろしい事態を招きます。


そして、それを恐れて敵は攻めあぐねていました。

まるで人質のようなものです。

そして、外交の駆け引きとして、天皇にまで介入をさせるほどに大事になったため、ついには降伏ではなく講和という形で決着します。


実はこの2か月の籠城で関ケ原の石田三成は15000の兵力を無力化されてしまいました。


もしもこの軍勢が関ケ原についていたら、歴史は大きく変わったことでしょう。

まさに「文武両道」の細川藤孝でなければ実現できなかった奇跡が歴史を動かした瞬間でした。


さて、実は戦国島津の長男坊で当主の島津義久はこの細川藤孝と長い付き合いがあり、古今伝授を受けた記録もあるそうです。

先ほどの説明とかぶりますが、天皇ですら喪失を恐れる『古今和歌集』の奥義を伝授されるというのがどれだけすごいことか、想像がつくと思います。


また、義久は藤孝に心を許していたのでしょうか、とある手紙を送っていますが、その中身は豊臣秀吉のことを見下した内容で親友に愚痴を言っているような内容が伝えられています。


今回紹介した「や」で始まる文武両道の薦め、そして以前学んだ自分よりも優れた友人を持ちましょうといういろは歌のアドバイスを当てはめた場合、島津義久にとって細川藤孝という人物は絶好の人物だったに違いありません。


余談ですが、島津義久はとても和歌が好きだったようで、教養を身に着けるというより政務でたまったストレスの息抜きのような感じだったのかもしれませんね。


さて、次回は今回と同じ「や」のいろは歌と孫子について考えたいと思います。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る