第181話 呂蒙と島津家久といろはの「な」

名を今に 残し置きける 人も人 心も心 何か劣らむ


現代語訳

名を残した立派な人も、われわれと同じ人間なのです。

心についても、優劣のあるものではありません。

だから努力次第では、だれでも立派なことができるのです。


「呉下の阿蒙」(ごかのあもう)という言葉をご存じでしょうか。

中国三国志の時代、「呉」という地域に呂蒙、(りょもう)という武将がいました。

彼は脳筋タイプだったらしく武芸一辺倒な人物とされていました。


ある時、呉の主である孫権(そんけん)という人物が彼のあまりの脳筋ぶりに「武芸だけでなく学問も修めた方がよい」とアドバイスしました。

その後彼は主人の言葉に応えるべく懸命に勉強を始めました。


それからしばらくしたある日、彼は参謀の魯粛(ろしゅく)と会話をし、魯粛は彼の高い見識と知識に大いに驚いて「すでに武略のみの呉の蒙君ではなくなったな」といったという。


つまり、脳筋の蒙ちゃんじゃない立派な人物になったのだな、と驚き喜んだようです。


蛇足ですが最初に紹介した「呉下の阿蒙」だけだと脳筋蒙ちゃんという意味なのでもし人に使うときは、「呉下の阿蒙にあらず」と否定形にしないと失礼にあたりますのでご注意ください。


またこのとき彼は魯粛に「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」といいいました。

この言葉も有名でありその意味は、日々努力しているものは三日も会わなければ目を見張るほど進歩しているということである。


この後彼はあの曹操、(そうそう)が恐れた武将であり、軍神のように恐れられた関羽(かんう)と戦い捕らえるという大金星を挙げることとなります。

「な」を後世に残した呂蒙もご覧の通り、初めは脳筋だったかも知れませんが努力して勉強することにより立派な将軍となったのです。


さて、もう一人こちらは身分の上下が厳しい時代に生まれた「島津家久」という人物を紹介しましょう。

家久は正室の産んだ子ではなく、妾腹に生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではありませんでした。


ある時、兄弟4人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行います。

馬追が終わり、当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言いました。


義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言いました。


兄からの激励の言葉を聞いた家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年のうちに文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の能力の優劣もなくなった、と記憶されています。


ちなみに家久は大名の竜造寺隆信、(りゅうぞうじたかのぶ)をはじめ複数の武将を討ち取っており、兄の「島津義弘」(しまづよしひろ)が幾多の戦功を妬んだと記録されるほどの武名を残しています。


同じ人間なのだから努力次第でだれでも立派になれる、いま不遇を囲っている方が聞けば励まされる言葉ではないかと思います。

どうか皆様の努力が実ることを強く願いたいと思います。




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