第180話 織田信長といろはの「ね」

願わずば 隔てもあらじ 偽りの 世に真実ある 伊勢の神垣


現代語訳

私利私欲なく真心こめて願えば、神は分け隔てなく叶えて下さるのです。

偽りの世の中で、偽りのない真実の世界は、神々や仏様たちなのです。


今回のいろは歌は、当時の信仰についてのアドバイスです。

内容もシンプルで現代語訳の通り、私心がない願いならば神様仏様が叶えてくれるいう内容です。


ここで終わってしまうと筆者も困ってしまうので、戦国時代の織田信長の宗教観について補足したいと思います。

織田信長は当時としてはとても合理的な人物でしたが、一方で人並みの信仰もあったようです。


織田信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に必勝祈願のために立ち寄り、お礼参りにも訪れたとされています。

ちなみに桶狭間の戦いの前に熱田神宮に立ち寄ったのには、熱田神宮にいた神兵の援軍を依頼したという説もあるそうです。


桶狭間の戦いで勝利した織田信長は、熱田神宮にお礼参りした際に、現在では「信長塀」と呼ばれる全長400メートルにも及ぶ塀を寄進しています。


この歴史的な言い伝えからして信長が信仰をもっていたことがうかがえます。

また、彼は広大な領地を支配しましたが、大友宗麟(彼は熱心なクリスチャン)のように神社や反抗的ではない仏教にはせん滅的な敵意を示すことなく、自由に商売などをさせています。


信長と宗教といえば、一向一揆との長年にわたる壮絶な抗争が頭に浮かびますが、彼の視点からすると一向宗は秩序を乱す敵でした。

彼から見ると一向宗には仏様はいないと判断したのかもしれません。


日本人の宗教観は「お天道様」が見ているという感じなので神様も仏様も一緒で、他にも沢山の神、八百万の神々を信じています。

なので、キリスト教が来ても信長から見れば一つの神に過ぎずすんなり受け入れることが出来たのでしょう。


彼は上杉謙信や武田信玄とはなるべくことを荒立てないように努力していました。

上杉も武田も信仰心の篤い武将です。

神仏の力を頼みにするこの二人を敵に回したくないという彼なりの直感なり計算があったのかもしれません。


しかし、信長自身が力をつけ彼の視点から見て宗教が邪魔な存在に変化したときに彼は自らを「第六天魔王」と名乗りました。

もはや彼は天に祈る立場ではなく彼自身が願いを叶える存在であると認識するようになったようです。


こうして信長は自身を神と認識し、もはや神に願う立場を捨てました。

その後彼がどのような道を歩んだのか、皆様もご存じのことと思います。

彼は、卓越した能力を持っていましたが神ではありませんでした。


こうして考えると神に「ね」がうという人間の祈りはそれ自体が「傲慢さ」という罠から人生の災厄を守る知恵なのかもしれないと私は思いました。

皆様はどのように思い、考えたでしょうか。





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