第171話 マンデラとニミッツといろはの「わ」

私を 捨てて君にし 向かわねば 恨みも起こり 述懐もあり


現代語訳

自分中心の自分勝手な考えを捨てて、社会、国家、人類のことを深く考えれば、すべての恨みや不平不満は無くなってしまうものです。


前の章でネルソン・マンデラについて調べてみました。

彼は南アフリカ政府から27年間刑務所にいれられていました。

普通に考えたら恨み心頭、不平不満ありまくりだったに違いありません。


でも彼は自分を陥れた政府の要人や関係者に報復しませんでした。

それどころか、彼らと話し合いを何度も続け、彼らが飲めるギリギリの提案を提示して、国を一つにまとめていきました。


もちろん、その過程で何度も衝突し、怒鳴りあいなどもあったようですが、彼は自分が南アフリカを争うことなく一つにまとめるキーマンであることを強く認識していました。


彼と主張が異なる勢力も、人種が異なる部族も、宗教が異なる集団も、マンデラが社会、国家、すべての人種にとって公正、平等に近いラインで話をまとめる人物であることを認めていました。


ノーベル平和賞を受賞した彼は南アフリカをまとめ大統領になったあと、95歳で亡くなりました。

彼の葬式には世界中の要人たちが集まり、当時対立していたアメリカのオバマ大統領とキューバのカストロ議長が握手をするという象徴的な出来事が実現しました。


彼は長年人種や宗教、政治思想などで分裂した南アフリカを崇高な理念をもってまとめ上げ、恨みを表に出さず、不平不満を政治に反映することなく現代に記憶を残すことになりました。


さて、もう一人チェスターニミッツという人物を紹介しましょう。

彼は太平洋戦争のアメリカ海軍の司令官であり、日本にとっては敵という立場でした。

彼は米国軍人として、アメリカの為その能力をフルに活用します。


実は彼が太平洋艦隊司令長官に就任したとき、アメリカ海軍は真珠湾攻撃により壊滅状態にあり、士気もどん底、戦力的にも日本海軍に劣っていましたが、彼は持ち前の楽観主義とそれを裏付ける綿密な作戦立案によって海軍を見事立て直していきました。


彼がアメリカという国を強く思い全力で戦ったことは間違いありません。

そして日本に勝利したとはいえ、少なからず味方の兵士を殺されていたことでしょう。

しかし、彼はその恨みを日本に向けることはなかったようです。


このような逸話があります。

第二次世界大戦後、「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知るとこれに激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止しました。


また、1958年(昭和33年)の『文藝春秋』昭和33年2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴えたそうです。


他にも東郷神社再建のための援助をするなど、彼は日本の東郷平八郎をとても尊敬し、自らを「弟子」と称しました。

ラグビーで「ノーサイド」という言葉がありその意味は「試合が終われば敵も味方もない」という意味だそうです。


ネルソン。マンデラもチェスター・ニミッツもそうした精神を生き方として表しました。


振り返ってみると薩摩武士も九州の武士たちもどこかノーサイドの精神があり、殺し合いをした後でも妙にさっぱりしていることがあるような気がします。

いろは歌の「わ」つまり私心による恨みよりも大きなものを優先する、そうした底なしのおおらかさを感じます。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る