第152話 西郷隆盛と明治維新といろはの「ろ」
楼(ろう)の上も 埴生の小屋も 住む人の 心にこそは 貴き賤しき
現代語
広大な邸宅に住んでいても、粗末な小さい家に住んでいても、人間の価値というものは、家ではなく、そこに住む人の心のありかたで、尊いか賤しいかが決まるのです。
この言葉を紹介するうえで欠かせないのが、西郷隆盛でしょう。
彼は有名な言葉として「児孫の為に美田を買わず」という言葉を残し、彼自身陸軍大将、参議というとてもえらく給料も多かったであろう立場ながら、質素な家で暮らしていました。
彼は自分の私欲よりも、世のため人のために何ができるかを考え行動することに価値を見出した人でした。
ちなみに余談ですが、彼は犬が大好きで家の中でも結構好き放題にさせていたせいか結構散らかっていたというような人間臭いところも記録で残っています。
いろは歌の「ろ」を見返してみると必ずしも広大な家に住むなと言っているわけではありません。
西郷さんも心の在り方を説いているのであって、規則のようにあばら家に住めと勧めているわけではない点は注意が必要かもしれませんね。
島津義久(戦国時代の島津家当主)は城の門があまりに質素であることを弟から聞いた時、「城門が立派でも民衆が疲労していたらその方が問題だ」と言い返したという伝聞が残っています。
さて、少し視点を変えてみますが薩摩島津が幕末まで生き残り、後に明治維新の立役者になったのは有名な話ですが、私はこのいろは歌の「ろ」のアドバイスが大きな役割を果たしたと考えます。
島津と徳川幕府は関ケ原以降緊張状態がつづいていました。
幕府としては危険な島津を取り除こうといろいろと策を弄していたことが分かります。
例えば参勤交代などは日本の端っこの島津にとって莫大な出費を伴い、力を削ぐのに大変有効だったと考えられます。
宝暦治水工事では徹底的に島津を財政、精神的に追い詰め多くの死者が出る過酷な環境に置かれました。
もし、島津が大藩の威厳を保つべく城や生活を豪勢なものとしていたなら、恐らく幕末になる前に潰されたか、あるいは力を削がれて無力化していたでしょう。
幕末のころになると、幕臣や譜代大名でも家のメンツを保つための出費がかさんだため借金まみれになり、後に来る動乱の時代に何もできなかった例が多く見られました。
また、石高の多い大藩であっても財政難で国が疲弊し、戊辰戦争などで空気のような存在だったところも多く見られることになります。
こうして考えてみると結果的にはいろは歌の「ろ」の教えはいざというときに必要なお金や力を蓄えておくために有益なアドバイスだったのではと思います。
明治維新に至る薩摩の躍進はこうした教えが下支えしていたのかもしれませんね。
今風に言うならば、普段の生活でこつこつとお金を貯めて、いざというときに目玉商品やお買い得の品物を買えるように準備しておくということでしょうか。
皆様はどのように受け止められたでしょうか。
次の章では家ではないですが、お墓を題材にこのいろは歌の「ろ」を考えてみたいと思います。
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