第151話 馬謖と趙括といろはの「い」その2
かつて島津義久は歴史上の悪人の肖像画を飾っていたそうです。
家臣がなぜそのようにするのか尋ねたところ「良い行いは、自らがしようと思えば出来る。だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似はするまい、そう心がければ、道を誤まることはない」と答えたそうです。
もしかしたら馬謖や趙括のことも研究していたかもしれません。
さて、趙括といえば、しばしば「丸暗記するだけで、その応用を知らない」例として引き合いに出される。 そして「紙上に兵を談ず」という故事成語となった。
とある通り知識はあってもその使い方がまちがっていました。
馬謖も同じです。
知識が正しい結論へ行かず大失敗をしました。
実はこの二人、とある傾向がありました。
それは知識を実用のための道具とするよりも自分を良く見せたり高めたりするためのアクセサリーのように用いていました。
その証拠に彼らは主に論破するために兵法の知識を使っています。
それも、無学なものや相手を見下すための方便としています。
今の時代でもその様な人は見受けられますね。
クイズを出して相手を見下したり、聞きかじりの知識や難しい外来語を使って自分をインテリのように演出する人物、結構おもいだすのではないでしょうか。
いろは歌の「い」は知っているだけでは何にもならないと辛らつに警告しています。
そして、古の知恵や知識を役立たせることに心を向けるようアドバイスをしています。
また、人を使う際に知識だけではなく経験も重要であることを暗に教えてくれているのではないかと思います。
知識を役立たせるためにはある程度経験が必要です。
知識と知恵を両輪の車のようにすれば、馬謖や趙活のような悲劇を回避できたかもしれません。
この二人の不幸は知識があることで過大評価されてしまったため、当時の一流武将であった張コウや白起を相手にしたことでしょう。
もし彼らが知識や知恵を磨き、熟練した武将となる時間があったならばもっと違った人生もあったでしょう。
古の知識や知恵は見せびらかすものではなく、役に立つ方法で行うこと、いろは歌の頭に来るのにとてもふさわしい教えだと思います。
皆様はどのように感じられたでしょうか?
次はいろは歌の「ろ」です。
お楽しみに。
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