第150話  馬謖と趙括といろはの「い」その1

いにしえの 道を聞きても 唱えてもわが行いに せずば甲斐なし


現代語

昔の立派な教えを耳にしても、口に唱えても、自分の行動に生かして実行しなければ、何の役にも立たないのです。


昔、中国の三国志の時代に馬謖というとても知識のある人物がいました。

彼はかの諸葛亮にその才能を高く評価されており、とても弁舌の立つ人物でした。

ある時諸葛亮は馬謖に街亭という軍事上重要な都市の防衛を任せるため大軍を預けました。


彼が比較的若いこと、作戦の重要性をかんがみ、反対する将軍もいましたが、諸葛亮はその声を押しのけました。

街亭につくと彼は山に陣を張ろうとしました。

その時に王平という副将が反対意見を出します。


王平は実戦豊富な武将で、現地の地形も良く分かっていたようです。

彼はもし補給線を絶たれたら大変なことになるという理にかなった理由によって反対しましたが、馬謖はそれを退けます。


馬謖がなぜ、提案を退けたかいくつか説があります。

一つに彼は孫子の言葉を挙げ、山に登れば有利であるという言葉のみを考慮したとあります。


もう一つの推測として王平は馬謖と違い、インテリではなく文字も書けなかったという言い伝えがあり、馬謖が彼を見下していたのではないかという見方もあります。


いずれにせよ馬謖は進言を退け山に陣を張り、その後敵である魏の名将張コウによってコテンパンにされ、その後処刑されました。

この時、諸葛亮はかつての主君劉備から馬謖に関して、「彼は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」という言葉を思い出し後悔したとあります。


もし、馬謖が生兵法をせずに、王平の言葉を聞いていればこうした結果にはなりませんでした。

彼の知識は何の役にも立たなかったのです。


さて、馬謖とよく比較される人物ですが、この時代より前、戦国時代に趙括という将軍がいました。

彼の父の趙奢(ちょうしゃ)は名将という評判を得ていましたが、彼はその父親を兵法論議で論破するほど知識と弁舌がありました。(あれ、どこかで聞いたような)


彼の場合は馬謖と違い敵の計略により趙という王様から将軍として40万の大軍を指揮するように命が下りました。

彼もまた馬謖と同じように補給線の立たない場所に陣を取り、その後兵糧がなくなったため突撃をして戦死しました。


ちなみにその時の陣立ては兵法に沿ったものだったらしいですが、やはり敵に囲まれ打つ手がなくなり、最後はやけくそになるというパターンでした。

その後、趙の40万の軍は秦の白起将軍により生き埋めとなり若い240名をのぞき全滅という目を覆いたくなる結果となりました。


次の章ではこの2人の性格を分析し、いろは歌の「い」の注解をしたいと思います。

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