case7. 会えない理由(9)
話は想像を超えて、さらに深い人の心の闇へと転がってきてしまったようだ。
自分の目線が早苗さんに釘付けになっているのに気づいて、私は慌ててテーブルへと意識を移した。とっさにコーヒーカップを持ち上げて一口飲むと、喉のあたりでゴクリといやに大きな音がした。
早苗さんも黙ってコーヒーを飲む。私の動揺に気づいているかどうかは、わからなかった。
小さく息を吐くと、私はメモを見た。言葉がうまく頭に入ってこない。
「辱められた、バカにされた、腹立たしい、憎らしい、恥ずかしい……」
続きの言葉を、無造作に読み上げる形になってしまう。
「なんか、すみません、ヘンな話になっちゃって」と、早苗さんは神妙な面持ちで上目がちに私を見て言った。
「いえいえ、こちらこそ、ちょっとビックリしちゃって」と、やっと私も一息つけた気分で答えた。
「『辱められた』っていうのはですね」
今度は早苗さんの方から話し始める。私はペンを握り直した。
「まずは、あの野球拳みたいな遊びをした時のことなんですけど」
「あぁ、二人で泊まった時の?」
「えぇ。ふつう、あんなことします? 美雪ちゃん、まだ小学校二年生だったんですよ?」
問いかけられて、そのくらいの子供がどういうものか、思い巡らせてみる。
「ませた子供なら、どこかで見知ったおちゃらけた遊びをしてみたいと思うかしらね」
「んー。確かにそういうのはあるかもしれないけど、私はむしろ、いま思うとですけど、いやらしい感じがするんですよね。最初から、体に興味があったんじゃないかって」
「お医者さんごっこって、いくつくらいからするんでしたっけね?」
また、あまり得意とは言えない分野に話が及んできて、私はトンチンカンなことを口走る。
「さあ、それはわかりませんけど……でも、私、あの時のことを思い出すと、ゾッとするんです。見られて、触られて。しかも年下から。幼児ならまだしも、それなりの年齢の子に」
早苗さんの顔が少し赤らんだように感じた。
「もしかして、それがトラウマになってるとか?」
「いえいえ、忘れてたくらいですから、そんなんじゃないんですけど、おじさんが会わないかって言ってるって聞いて、いろんな記憶と一緒に突然思い出したんです。それで、なおさら、会えない! と強く思っちゃって」
その時の早苗さんの胸は、まだ膨らみ始めたばかりと言っていた。頭の中で、子供のころの自分の胸を思い出そうとしていると、早苗さんが先を続けた。
「だって、膨らみ始めた胸なんて、その時だけじゃないですか。そして、大人になると、そんな前段階なんてなかったみたいに思ってるでしょう? だから、おかしいけど、私、何か特別な秘密を見られてしまったような、すごくイヤな気分なんですよね」
確かに、そのくらいの時分には当人もあまり意識しないかもしれないが、あとから思うほど、それを見られることは恥ずかしいことだと感じなくもない。
「なるほど。わかるような気がします」と同意はしたものの、疑問をぶつけてみる。
「でも、そこまでの意識、その真っ只中にいる時には、お互いに持ってないんじゃないですかね? あくまでも、いま思うと、ってことであって……」
また、早苗さんは嘲るような笑みを見せた。
「村下さん、だからなんですよ。さっきから言ってますけど、だから、今、会いたくないんです」
「あぁ、そうでしたね」
私はすっかり取材のペースを乱された気分で、もう一度「今、会いたくない」と書いて、そのフレーズを丸で何重にも囲んだ。
話の方向を整理したいと思って、取材ノートに目を落としたままでいると、「ちょっとすみません。コーヒーは効きますね」と言って、早苗さんはまた席を立った。
重い病気のはずだった美雪さん。
代理ミュンヒハウゼン症候群の一種だったんじゃないかと疑われている母親の若子さん。
そして、美雪さんが元気で出産までしていたことで、複雑な気持ちになってる早苗さん。会おうと言われて、いろんな記憶が一気によみがえって、絶対に会えないと思っている。
やはりここは、早苗さんの気持ちにフォーカスするのがいいだろう。どっちにしろ、美雪さん母娘のことは想像するしかなく、正解はわからないのだから。
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