case5. つきやぶる!(9)
「どういう意味ですか?」
珠子はポカンとして訊いた。
「いやいや、今さら、それはないでしょう。期待を裏切らないでくださいよ」と、その男性はやさしい態度を崩さずに言った。
そして、「そんなひどいことはしないよ。ちょっと、拘束するくらいで」と、カバンからやわらかそうな素材のヒモを取り出して、ひらひらと振って見せた。
優しい紳士の顔の裏で、この人は何かよからぬことを考えている。未だに性の世界に疎いところのある珠子だったが、本能的にイヤな感じがした。
「お金を、くれるんですか?」
「もちろん。その代わり、言うことはきいてもらうよ」
体が震えてきた。が、それを悟られてはいけない。珠子の本能がそう警告していた。
「ちょっとその前に、お手洗いに…」と言って靴を履くと、珠子は一目散にドアへ駆け寄った。
「あ、ちょっと…」と男性が追いかけてきたが、寸でのところでドアをすり抜けた。
バッグは残してきてしまった。が、今日は少しの化粧道具と最低限のお金しか入っておらず、身分証明書など素性がわかるものはない。バッグより、逃げることが優先だった。
***
そこまで話を聞くと、私は息を吐き出した。思うようにペンを動かせないほど緊張していた。メモ帳に、乱れた字が並ぶ。
ひところ世間で、女の子たちと大人の男性の間の援助交際が取り沙汰され、当事者たちへのインタビューとともに、そういった風潮の分析も多くなされた。私も、共感はできないまでも、双方の事情が絡み合ってそういうことになってしまう現象としては理解しているつもりだった。
が、いま実際の感覚を伴った話を本人から直接聞くと、その生々しさにドギマギしてしまう。
まして珠子さんの場合は小遣い稼ぎが目的ではなく、純粋に行為そのものの中に彼女なりの求めるものがあったということだ。いつかどこかで聞いたことのある援助交際の話などとは、お金目当てでないということ以上に印象がまったく違って聞こえた。
「ちょっと、ドリンクお代わり持ってきます」と珠子さんが席を立った。
私は気を取り直すように、メモをチェックし始めた。
戻ってきた珠子さんは、ストローで一気に半分くらいジュースを飲んだ。私は彼女がコップをテーブルに置いたタイミングで質問を始めた。
「それで、逃げ切れたわけですね」
「はい。それ以上は追いかけてきませんでした」
「それで、その…ハンティングというのか、男性を求めて歩くのは、その後も?」
珠子さんはちょっと考えてから言った。
「実際に探し求めて歩くのはやめました。けど、やっぱり体はそれを求めていたと思います」
「もし、こわい目に遭わなければ、そのあとも続けていたかも?」
「そう思います」
これ以上どう話を進めたらいいのか、私にはわからなかった。やはり、このネタはそっとしておくべきだったか。私も冒険が過ぎた。
少し後悔していると、珠子さんが口を開いた。
「あの…私ってきっと、マゾなんですよね?」
やはり彼女のポイントはそこなのか。
「ご自分で、そう思うんですね?」
「えぇ。本当は、そんなふうに思いたくないんです。でも、どう考えても、その…行為そのものの快感と言うか、みんなが言うようなイクというのを一度も感じたことがなくて、むしろ痛いくらいなのに、力で、なすがままに『される』という感覚が好きって、おかしくないですか?」
私にそのへんの分析は無理だった。が、行為によって直接的に”いわゆる絶頂感”を味わったことがないという女性がけっこういるというデータは見たことがある。それでも性行為をするのは、女性は好きな相手とただ抱き合うだけで幸せを感じ、それで満足ということもあるのではないか。
私が乏しい知識を総動員して、どう返事をすべきか迷っていると、また珠子さんが口を開いた。
「私、そもそもエッチの時に、自分からどうこうしたいとかまったくないんです。ただ、強く、支配される感じがいいんだと思うんです」
まぐろ、というヤツだろうか、と私はなぜか裸婦が静かに横たわる油彩画を思い浮かべた。頭がついていかない。もう、降参したい。
何だか暑くなってきた。デリケートな話を進めるのは、思った以上にエネルギーが必要だった。
そして私には、この話がどう結論づけば珠子さんが満足するのか、よくわからなかった。がんばって、質問する。
「逆に、自分からというのは、試してみたことはないんですか?」
「実は、そのあと同級生の一人とつき合ってみたことがあって。そのへんが一番無難かなと思って。いっしょの講義でしょっちゅう顔を合わせる子と話してみたら、何となく向こうもまんざらじゃなさそうで、ごはん行ったりしてるうちに仲良くなって」
「で、その人と試してみた、というのもヘンですけど、そういうことになった、ということ?」
「それが、なかなかならなくて、結局、私の方から襲ったと言いますか…」
私はカラカラになったのどを潤すのにドリンクを飲んでから、ひと呼吸置くために無意味に「なるほど」と呟いた。
珠子さんが続ける。
「でも、まったくダメでした。まず彼、童貞だったし、私の方が教えるみたいな形になって、やっと慣れてきてからも全然力強さがなくて、やさしいだけで退屈でした」
またしても見た目の印象と程遠いことを言うなと、私は視線を泳がせた。
「退屈…ですか」
「はい。それで、求めるのと違うと思って、別れました」と珠子さんは言って、残りのジュースを飲み干した。
私は同級生との顛末に突っ込む代わりに、ずっと引っかかっていたことを持ち出してみることにした。
「あのぅ、晃さんはどうなったんですか。マゾとかどうとか言う前に、晃さんとの行為がよかった、というか、晃さんが忘れられないということではないんですか?」
珠子さんはうっすら微笑んで、スッと顔を上げた。
「はい、実は晃くんに会えば何か解決するかもしれないと思ったこともあって。それで、彼が帰って来て、構内で見かけた時にすぐに声をかけたんです」
「あら、帰って来たんですか!? いつ?」
「一年後でした」
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