case5. つきやぶる!(8)
紗子に返信すると、二杯目を頼むのをやめて、帰ろうと決めた。
その時、一人の男性が珠子に近づいた。
「一人?」
見ると、サラリーマン風の若い男だ。整髪料なのか制汗剤なのか、ちょっといい匂いがする。
「いえ、友だち待ってたんですけど、来られなくなってしまって。もう帰ろうかと……」
男は、珠子の言葉を最後まで待たずに隣に座ってきた。
「偶然! 実は俺もなの。裏切られた者同士、一杯だけ飲んでかない?」
実はさっき、メニューの新しいカクテルを試してみたいとは思っていた。一杯飲むだけならいいだろう。
「じゃあ、一杯だけ」
不思議な気分だった。こんなふうに男性に声をかけられたのは初めてなのだ。
自分は地味で目立たない、男から見ると何の魅力もない女だと思っている。しかも、つい何カ月前までバリバリのアイドルオタクで、化粧っ気もない子供っぽい容貌だ。きっとこの人は、本当に、すっぽかされた時間の穴埋めに声をかけてきただけなのだろう。
それぞれのドリンクとつまみを数品注文し終わると、男が「いくつ?」と訊いてきた。
「二十歳になったばかりです」と珠子が答えると、「そっかー。いや、後ろから見てた時はもうちょっと上かと思ったんだけど、前から見ると童顔だもんね」と男は言った。
やっぱりだ。私は子供っぽいんだ。
急に場違いのような気がしてきて、珠子は誘いにのったことを後悔した。その様子を察してか、さらに男が言った。
「でもね、後ろから見るとすごく色っぽい。スタイルがいいんだね」
なんであれ、異性から褒められたのも、これが初めてだった。
そうなの? 私って、スタイルがいいの? 自分では、もっと痩せたいと思っていた。特に、お尻はもう少し小さくてもいいのではないか?
ただし、真剣にダイエットしようと思ったこともない。何のために、そんなことする? 別にモテようとも思わないし、そもそも男性に興味もなかったのだから。
「たぶんね、お化粧したら、すごく美人になると思うよ。いや、今のままでも十分かわいいんだけどね」
慣れた店で、ほどよく酔いも回って、褒められたり、他愛もない話をしたりしているうちに珠子はすっかり警戒心をなくしていた。
紗子に知らない人と飲んだって言ったら、いったいどんな顔するだろう。そう思ったら、自分が紗子よりも一歩進んだ大人になったような気がした。
つき合ってくれたお礼に、もう一杯おごらせてと言われて、珠子は頷いた。
「これね、俺のおすすめ。飲んでみて」
運ばれてきたカクテルを言われるままに飲むと、強い刺激が胃まで尾を引いた。
「うわ、何これ?」と顔をしかめる珠子に、なおも男がすすめる。
「生ハムといっしょに、ほら。すごく合うんだよ、これが」とたたみかける男が、だんだん鬱陶しくなってきた。
「私、やっぱりもう、帰らないと」
「大丈夫だよ。なんなら、タクシー代くらい出すから」
そうだ、タクシーだ。あの日もタクシーから始まった。いつものうずくような感覚が、珠子の体の奥底にムクムクと湧き上がってきた。
男がおすすめだというカクテルは、刺激は強いが、味は悪くなかった。
気づくと、珠子は知らない部屋のベッドの上にいた。シーツは清潔だが、室内は古い木の匂いがする。チグハグな感じに違和感を覚える。
「あ、起きた?」と、どこかから男の声がした。
驚いて飛び起きると、上半身裸のさっきの男が、スーツの下を脱ごうとしていた。
あの時の珠子とは、もう違う。何が起ころうとしているか、すぐにわかった。
「あ、私、帰るんで…」
言いかけると、男は「いいじゃん」と珠子をベッドに押し戻して、すぐに覆い被さってきた。
——体を貫く快感。
ただ押し倒されただけで、珠子はもう陶酔していた。
「私が求めていたのは、これだ」
あとは、されるがままだった。
結局この日も、行為そのものからの快感は得られなかった。しかし、押し倒された瞬間から感じた、男の力強さと体の重み。なす術なく受け入れる自分。その関係性の中に、珠子の快感があった。
その後、ますます珠子は夢想の虜になった。
そして、紗子にも誰にも言わずに、夜の街を意味ありげに歩くようになる。
体にフィットする洋服が、メリハリのきいた珠子の体型を強調する。薄化粧をすると、高校生のようなあどけなさがかえって浮き彫りになった。オンナの体とあどけない面立ちというアンバランスさが、珠子に独特の色を与えていた。
セクシーな看板を掲げる店が建ち並ぶ界隈を一人でふらふらしていると、通りすがりに何人もの男がじろじろ見てくる。
「あまりこわそうじゃない人がいいな」
珠子の方も物色する。
何度めかでやっと、少し年配のやさしそうな男性とお酒をともにすることになった。靴に入った小石を出そうとして屈んだ珠子が立ち上がった時、その男性は「大丈夫?」と声をかけてきたのだった。
「あ、はい。大丈夫です」
「一人? こんなところ歩いてたら、危ないよ」と言ったその男性と、珠子はお酒のあとにホテルへ行った。
やさしく紳士的だった。慣れた身のこなしで、言葉のないままに促されて、ベッドに横たえられるところまであっという間だった。
あまりに心地よくスマートな流れの中で、珠子は催眠術にでもかかったように自分から服を脱ぎそうにさえなっていた。が、その時、驚くべき言葉が発せられたのだ。
「いくらほしいの?」
男性は財布を開いて、珠子を見下ろしていた。そしてさらに言ったのだ。「言うとおりにしてくれたら、いくらでも出すよ」
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