case5. つきやぶる!(7)

 珠子は、午前中の講義をさぼった。心配した紗子からメールが入る。

「ちょっと、体調悪くて」と返す。「でも、午後には行けそう」


 結局その日、紗子とは会えなかった。


 夜は、金太郎の出番だったが、晃は来ない日だった。

 が、翌日以降も、珠子が晃に会うことはもうなかったのだ。


 おかしいと思い店長に確認すると、電話でやめると言ってきて、それきりだという。


 それからしばらく経って、休学して外国へ放浪の旅に出たヤツがいるという噂が同級生の間に流れた。


 思えば、これぽちも快感などなかったのだ。

 珠子にしてみれば、レイプされたに等しいと言ってもよかった。

 なのに気づけば、あの夜のことを夢想している自分がいる。力強く抗いがたく、珠子を押し倒したたくましい晃の肉体、その重み。途中からは意のままに操られていた自分。

 そして、あの痛み。快感などではなかった。それなのに、思い出すと体の芯がうずく。


 珠子の中に、どうしようもない刻印を残して、晃はいなくなった。


 まるで熱に浮かされたように、繰り返しよみがえる記憶と、それに反応して湧き上がる切ないような体の感覚。それらを夜昼となく味わいながら、珠子は自分が恥ずかしくもあった。かつて、あんなにも嫌悪していたにすっかり組み伏せられている。そして、それが一過性のものでないことに気づくと、誰にも言えないと思うようになった。


——もう一度。


 それが叶わないのなら、忘れてしまいたい。けれど、体が忘れさせてくれない。


 悶々とする日々が続いた。

 そんなある日、紗子が二十歳になったお祝いに、二人で飲みに行こうということになった。奮発して、おしゃれなレストランを選んだ。一杯だけの乾杯は、紗子の希望でシャンパンにした。


 そのあと、二人は紗子の一人暮らしの部屋へ行った。そのシチュエーションが、珠子に晃を思い出させる。


「ねえ、紗子さ、前に高校の時に一度だけ、エッチしたことあるって言ってたじゃない? それってどんな感じだった?」


 あまりそういう話をしたがらないと思っていた珠子から不意打ちを食らって、紗子は目を丸くした。

「どうした、珠子! ついに第二次性徴来た!?」

「失礼な。とっくに来てますけど?」

「うん、どっちにしてもいいことだ。もっと男に興味持ちたまえ」と、紗子は珠子の頭をポンポンと叩いた。

「そんなのいいから。で、どうだったの?」

「う〜ん、正直、あんまり。痛いだけで、なんかもう、こういうのしたくないって感じ」

「ふーん」

「相手が下手だったってのもあるんだと思うけど、何かちょっとこわかったよ」


 痛かった。うまくいかなかった。気持ちよくなかった。それはきっと、珠子も同じだった。なのに、「もうしたくない」「こわい」という気持ちが自分にはない。


「もし、またすごーく好きな人が現れて、求められたらどうする?」

「う〜ん。まあ、好きだったら、きっとするんだろうね。でも、そういうの抜きで行為だけを想像すると、正直、『したくない』って感じもあるんだよね」


 珠子は考え込んだ。自分がもう一度と求めているあの感覚は何なのか。


「どしたの? そういえば最近、珠子ちょっとヘンだと思ってたんだよね。何か、変わったよ」

「え。ど、どこが?」と、正直な珠子は動揺が隠せない。

「絶対、なーんかあったでしょう?」

「ないない。なんもないよ」

「あの、例のバイトいっしょの人とエッチしちゃった? もしかして、惚れちゃったぁ?」

「何言ってんの。てか、彼、もういないよ」


 珠子は、晃が放浪の旅に出たことを紗子に詳しく話した。


「つまり、じゃあ、失恋だね!?」

「だ・か・ら、違うんだってば。何もなく、いなくなったの。突然やめて、それきりだよ。店長もぼやいてたくらいだよ」

「なーんだ。どっちにしても、今後の進展はなし、か」とつまらなそうに伸びをして、紗子は床に寝転がった。


 考えてみれば、恋する間もなくいなくなったのだ。失恋のしようもない。

 結局、携帯電話の番号も、住所も、何も知らせてなかった。今、二人をつなぐものは何もなかった。


 時々火照る体の芯をどうすることもできずに、相変わらずの日々を過ごしながら、珠子は紗子と月一回程度飲みに出るようになった。二人ともサークルなどには所属しておらず、お嬢様の紗子はバイトもしてないため、飲みに行くのは自然とこの二人でということになった。


 ある日、行きつけになったカジュアルなバーで、珠子は紗子を待っていた。お互い、午後の講義のスケジュールが合わず、店で待ち合わせることになったのだ。珠子は若い店員とも顔なじみになっており、一人でいて心細いこともなかった。


 値段が安く、気取らない雰囲気のせいか、若いサラリーマン風の客に混じって、いかにも学生風情の客もチラホラいる。いずれもカップルか、二、三人で静かに座っている。


 自分がこんなところで、一人でこんなふうにしてるなんて。

 時々店内を見回しながら、珠子は感慨に耽っていた。あの日を境に、一枚殻を破ったみたいだと思う。


「それにしても遅いなぁ」と珠子は携帯電話に目をやる。

 三十分近く待たされ、手持ち無沙汰で最初のソフトドリンクを飲み切ってしまった。「軽いお酒、頼もうかな」とメニューを見ていると、バイブが鳴った。


「ごめん、行けなくなった。家から電話で、兄が事故に遭ったらしい。詳細は今度ね」


 紗子からのメッセージだった。

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