case5. つきやぶる!(5)
終電どころか、日付もまたいでいることに珠子は気づいていた。
それでも、なぜか帰りたいと思わなかった。
晃の話は、珠子の知らない世界を垣間見せてくれた。
そうだ、世界は広い。自分は、狭い日本の中の、アイドルという狭い世界しか見てなかった。どうして今の今まで、それだけで自分が満たされていたのか、まったくわからない。ほかの世界を知ろうともしていなかった。
話が途切れて、ぼうっと珠子が夜空を見上げていると、「帰り、どうする?」と晃が訊いた。
「タクシー代あげようか?」
「世界へ行く人から、大事な旅費をいただくわけ、いかないし」と珠子。
一瞬の間があった。それから晃が突然ブランコから立ち上がり、大きな声で言った。
「そうだよ、俺はどうせタクシーで帰る。うん、いっしょに乗っていきなよ。誘ったの俺だし。うん、そうしよ」
一人で納得して歩き出した晃に、珠子も立ち上がってついて行った。
「方向いっしょなの? 私は○○町だけど、そっちはどこに住んでんの?」
「いいからいいから。気にすんなって」
ひとまず、○○町方向へタクシーが走り出した。が、○○町に着く前に、先に晃が運転手を止めた。「ここで下ります」と言って、左側に座っている珠子を外に押し出す。珠子がまた乗り込むつもりでぼんやり待っていると、晃はお金を払ってタクシーを行かせてしまった。
「ちょっと待って。何すんの!?」
去っていくタクシーを追いかけようとする珠子を、晃が制止した。
「俺とこ、泊まっていきなよ」
「え? いや、だって私、帰らなきゃ」
「○○町遠いし、俺、もうちょっとたまっちと話したい」
「えぇっ。そんな、でも…」
晃ともう少しいっしょにいたい。その気持ちは、珠子も同じだった。
古くて狭い、1DKのアパートだった。奥の部屋に布団が敷きっ放しになっている。
「ごめん」と言いながら晃は布団を窓際へ押しのけ、小さなローテーブルを据えた。
「家に連絡する? さっき言ってた友だちのところに泊まるって、さ」
珠子は母親の顔を思い浮かべた。
「うぅん。いい。前も紗子のところに泊まったことあるし。帰らなかったら、また泊まったと思ってくれるでしょ」
珠子は壁にもたれるようにしてテーブルに着いた。
晃が台所から「何か飲む?」と訊いてくる。もう、何も飲みたくないし、食べたくない。ただ、晃と話せればよかった。
「何もいらない」
「じゃ、俺もいいや」と言って戻ってきた晃は、珠子の斜め横の位置にあぐらをかいて座った。
「んじゃ、もっとたまっちのこと聞かせてよ。どういうヤツがタイプなの?」
「あ、いや、うん。そういうのはあんまり考えたことないな」とごまかし笑いをする珠子の頭には、アイドルグループの面々しか浮かんでこない。
「俺は? ダメ?」
晃の目が、薄暗い蛍光灯の下で意味ありげに珠子を見つめる。やさしいけれど、何か芯のあるような揺るぎなさを湛えた目だ。
珠子の心臓が急にリズムを変えた。空気が、さっきまでとは打って変わって、ただならぬ気配を帯びてきた。
俺は? と訊かれて、何を答えればいいのか、答えたら何が起こるのか、よくわからない。そもそも、私はどうしちゃったのか。息ができない、言葉が出ない、頭は真っ白、手が冷たくなってきた。
安い壁掛け時計の音がする。
秒針は十秒くらいしか進んでいないのだろうけど、永遠のような時間だった。
晃の手が珠子の肩に伸びてきた。
ハッとして顔を上げた珠子の目の前に晃の顔がどんどん迫る。
「なに!?」と思う間もなく、珠子は壁にやさしく押し付けられて、口づけされた。
晃はそのまま体をずらしながら、珠子に全身で迫ってきていた。壁伝いに押し倒される。硬直した体と真っ白な頭で、珠子はかろうじて、いま起ころうとしていることを悟った。
覆い被さって、珠子の首筋に顔を埋める晃。指が、珠子のブラウスの首元をまさぐってきた。
「待って。なに!? ちょっと…」と珠子はやっとの思いで両手で晃の肩を持ち上げようとした。
見ると、晃はさっきまでの晃ではなかった。そして、吐息のすき間から「なんで? こうなってもいいと思ったから来たんでしょ」と言った。
「俺、もう止められないよ」
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