case5. つきやぶる!(2)

 大学二年生のある日、珠子にいきなり告白してきた男子学生がいた。


 名を晃といい、取り立ててイケメンでもないが、見るからに明るいキャラクターで友だちも多そうな、なかなか悪くない青年だった。

 が、珠子の本能が示した反応は「気持ち悪い」だった。見た目ではなく、告白という行為がおぞましいと感じたのだ。


 その時、珠子は自動販売機で飲み物を買おうとしていた。

 いきなりの告白に対する自分の感情を受け止めかねて、硬貨を持ったまま固まっていた珠子に、晃は身を屈めて覗き込むように顔を近づけてきた。

「やっぱり、ダメ? ですか?」と晃が言った時、なま温かい息が感じられた。


 アイドルは、遠くで光り輝いているもの。決して、私たちのいる下界に下りて来ることはない。手の届かないものを崇拝することが珠子にとって尊いのであり、「よかったら、俺とつき合わない?」などと生身の体を持ったものがすり寄ってくることは、むしろ屈辱的なことにさえ感じられた。


——なま温かい息。気持ち悪い。


 女性同士では感じたことのない、感覚だった。


「ちょっと、私、そういうのは」と言葉を濁すと、晃は「まあ、そうだよな」と一歩後ろに下がって言った。

「あ、俺のことは知ってるよね。水曜の英語、いっしょでしょ? 今度、そのあとランチしようよ。学食で、だけど」


 珠子は驚いた。断っているのに、このメゲないメンタルの強さは何だ。バカにされてるのだろうか。


「たぶん友だちと食べるから、無理です」と珠子が答えると、晃は軽く笑って、「だよね。んじゃ、また機会あれば」と去っていった。


 機会などあるわけない。

 珠子は、いやな感触を振り落とすように何度か肩を上下させてから、ジュースを買った。



 次の水曜日の英語の講義の時間。珠子の隣に晃が座ってきた。


「こんちはー」と軽く言ったあと、晃は一度も珠子を見なかった。珠子の方は動けなくなるくらい緊張していたが、相手はまるで珠子の存在を無視しているかのようなそぶり。それがかえって気になって、珠子はいつ何を話しかけられるかと講義の間中ソワソワしていた。


 永遠かと思えるほどの九十分がやっと過ぎ、珠子はそそくさと講義室を出た。

 後ろを振り返ると晃はついて来てはいなかった。ホッとして学食へ向かい、友だちの紗子さえこと合流した。


 紗子は、珠子ほど熱狂的ではないものの、アイドルの話で盛り上がれる唯一の同級生だった。

 高校時代までいっしょに同じアイドルに熱狂していた親友の愛花まなかは、東京の大学に進学してしまった。さびしくはあったが、追っかけとしては都合がよい面もあった。東京でライブやイベントがあると、珠子が上京して愛花といっしょに楽しみ、夜は彼女の所に泊めてもらうことができる。


 というわけで、主に旅費を稼ごうという動機で珠子は大学にほど近い居酒屋でアルバイトをしていた。より本格的に追っかけができるようになったことに、珠子は満足していた。


 これまで、紗子も一度だけいっしょに東京に遊びに行ったことがあり、愛花とも仲良くなった。女同士、何不自由なくいわゆる青春を謳歌している。そこに、男子が入る余地はないように思われた。


「愛花がね、デビュー十五周年の記念DVD買ったんだって。私、どうしようかなぁ。今月、ちょっと厳しいんだよね〜」


 珠子が紗子とサラダ定食をつつきながらおしゃべりに興じていると、脇から大きな人影がかぶさってきた。通路が狭いのかと思って椅子を引きながらふと後ろを見ると、晃が珠子たちのランチを覗き込んでいたのだった。講義中の警戒感をすっかり解いていた珠子はギョッとした。


 晃は、またしても珠子の方は見ずに、「俺もそれにしよっと」と言うと、食券を買いに行った。


「知り合い?」と紗子が訊く。

「さっきの英語がいっしょなだけだよ」と珠子。

「なんか、馴れ馴れしかったよね」

「ほとんど話したことないんだけどね」


「ふーん」と生返事を返しながら、紗子は晃の姿を探そうと視線を泳がせた。

「ちょっとちょっと、あの人、またこっちに来たよ」


 声を潜めながらも、紗子が色めき立つ。

「えっ!?」と珠子が振り向くと、晃はもうほとんど後ろに来ていた。そして、乱暴な音を立てて珠子の隣に座り、黙々とサラダ定食を食べ始めた。


 珠子たちは呆気に取られながら、しばし彼を見つめたが、やはり晃は何も言わず、こちらを見もしなかった。

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