case4. 代理戦争(7)
やり取りは続く。
「健人さんの弾くテンポは、『解釈の幅』の許容範囲の中におさまっていると思います。そして、彼の見つけた絶妙なテンポが、多くの人にとって心地よかったのです。時代が変われば、人が心地よいと感じるものも変わるのだと思います」
『はっきり言っておきますが、私は何と言われようと、彼のテンポは許容範囲を外れていると思います。曲の持つべき緊張感が完全に失われるほどに。あなたとはここの部分の評価が平行線のままなので、いくら議論してもお互いに納得いかないと思いますが、とにかく作曲家が指定してる限りは従うべきなのです。テンポまで含めての作品だからです。桜庭氏には、できないのならその曲を弾くべきではないと言ってやりたいですね』
「人それぞれ、いろんな好みがあります。音楽もエンターテインメントだと考えれば、多様な好みに合わせていくのも自然な流れだと思います。事実、クラシックもポップス調にアレンジされたり、イージーリスニング的な演奏が流行ったりしてるじゃないですか」
『桜庭氏はイージーリスニングなのですか?(笑)。だったら、こんな議論しても無駄ですね。通りすがりさんもクラシックだと思ってるから、こんなに反論してくるんですよね? イージーリスニングなんだったら、勝手にやってくださいって感じです(笑)』
これではいつまでたっても有益な結論は出ないだろうことは、もはや明らかだった。が、自分の方からやめてしまったら、負ける。それだけはイヤだ。
ただその一心で、サキはコメントを書き続けた。
皮肉なことに、続ければ続けるほど、このブログの検索順位は上がっていった。
それは、ファンやたまたま立ち寄ったニュートラルな音楽ファンの目に留まる確率が高くなることを意味する。ブログ主の健人への批判が、そのまま正当な評価として拡散することにもなりかねない。それはサキにとってこの上なく不本意なことだった。わかっている。が、それでもサキもなかなか矛を収めることができなかった。
もちろん、二人の間に健人のファンが参戦してくることもあった。
が、たいていは「健人さんの技術はすごいです。主旋律は大きく、伴奏は小さく弾いています」とか「桜庭さんは、心を込めて弾いています。だからみんな感動するんだと思います」といった頼りない意見で、むしろブログ主を勢いづかせることにもなった。
『そんなのは、プロの演奏家なら当たり前です。ピアノ教室の発表会じゃないんですから(笑)。それくらいの長所しかないような演奏だとしたら、ますます高額な入場料を取らないでいただきたいですね』
——これじゃあ、まるで、健人さんの周りには素人ファンしか集まってないみたいじゃない。
援軍のコメントとそれらへの返信を見て、サキは忸怩たる思いがした。
私の足を引っ張りたいのか。そんなことしか書けないなら、むしろ黙っていてほしい。周りは敵ばかりだと、サキは錯覚しそうになる。
ブログ主がさらに続ける。
『それまでクラシックに興味がなかったのに、桜庭氏をきっかけに聴くようになった方たち。あなたたちは騙されてるようなものです。私からすると、非常に嘆かわしい状況です。そういう方たちに本物のクラシックをわかってほしいと思って、私は書いています。どうか、素直に違う演奏家の演奏も聴いてみてください』
疲れてきた。
数日と空けず、こんなやり取りをしている。サキはヤケクソまじりに、違う例を出してみた。
「たとえば小説の世界では、どう感じるか、どう解釈するかなどは読者の自由、それぞれの感性に委ねるという作家も多いです。そして、読者の解釈を『そんな読み方もあるのか』と楽しんでるような作家もいます。この作曲家も、生きていたらそうかもしれないですよね。あなたの代弁がいつも正しいとは限らないし、そもそもあなたにファンの感性を縛る権利があるのでしょうか」
『クラシック音楽と小説は違いますよ。百歩譲って、もし小説に置き換えるとするなら、桜庭氏は恣意的に解釈を曲げて別物に書き直した小説を世にばらまいてるようなものだと思いますが(笑)』
いちいち「(笑)」をつけてくる腹立たしさ。しかも、だんだん図に乗ってきている気がする。
ここまできてやっとサキにも、自分も含めてバカバカしいことをやっているという気持ちが湧いてきた。
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