case4. 代理戦争(6)

 仕事から帰ると、サキはすぐにパソコンを開いてコメントを書いた。


 まず、設計図のアレンジも一定範囲では許されると思うこと。健人の演奏を百歩譲ってアレンジと呼ぶとしても、ふたを開けてみたらそれを好む人が多かったという事実。そして、そういう人たちの好みまで否定しなくてもいいのではないか。求める人がいて、それを与えられる人がいる。お互いに了解のもとに対価が払われる。そこに問題があるとは思えない。


 そして、最後にブログ主への反論を付け加えた。


「健人さんが、以前弾いていた時とテンポを変えたのは、必ずしも速く弾けなくなったことだけが理由とは言えないと思います。数十年の間に、曲への解釈が変わったのかもしれないとは考えられませんか。少なくとも、自分が不本意なものを人に聴かせているとは思えません。それどころか、私は、もし作曲家自身が彼の演奏を聞いたら、『これもありだ』と感動するのではないかとさえ思っています。クラシックだって、時代ごとに新しく磨き直されてもいいと思います」


 我ながら、決まったとサキはほくそ笑んだ。

 多少は意見を返して来るかもしれないが、普通なら「いろんな考え方がありますね」くらいのスタンスでこちらの言い分も認めて、それ以上の議論を吹っかけてきたりはしないだろう。


 サキは、これを見てるであろう全国の健人ファンが溜飲を下げるところを想像した。

 私は健人を守ったのだ。そんな誇らしい気持ちのうちに、サキは眠りについた。


 翌朝は、半ばワクワクしながら、朝食前にパソコンを開いた。読むだけで終わるだろうと思っていた。もう闘いは終わったのだ。


 案の定、昨夜のうちに返信がついていた。

 そして、思いがけない言葉に、またもやサキは衝撃を受けることになる。


「桜庭氏が解釈を変えたのかどうか知りませんが、とにかく、その解釈を公に出してきたのが間違いなんです。そこに何もわからない素人たちが飛びついてしまって。こっちはいい迷惑です。出さないでくれたら、こんなことも起きなかったんですよ。

 クラシックとは、ある意味、『伝統』として守られてきたものです。あなたは音楽家たちが正統に守ってきた『伝統』が失われることを、恐ろしいとは思わないのですか。私は、決して保守的な人間ではありませんが、意味があって守られてきたものが突然変えられてしまうこと、そして、変えられたものの方がいいと感じる素人が多数になることによって、正統なものが忘れられていくのがこわいです。『磨き直す』なんて、恐ろしいこと言わないでください(笑)」


——噛み合わない。


 サキは愕然とした。

 クラシックの伝統など、云々する気はない。専門の先生たちが考えてくれればいい。私はただ健人の演奏が好きで、そういう人がいる=健人の演奏にも価値があるということを認めてほしいだけなのだ。なぜ、わかってくれないのだろう。


 これ以上、議論を続けるのは、不毛なことなのかもしれない。だが、乗りかかった船だ。ここで下りるわけにはいかない。少なくとも、今の段階で中途半端なまま沈黙すれば、ブログ主は自分が勝ったと喜ぶだろう。


 その日の夜から、毎回これで最後と思いながら、サキはコメント投稿ボタンを押し続けることになった。どうにも引けなくなってしまったのだ。


「メトロノーム記号でのテンポ指定は別として、用語による速度指定の場合はある程度の幅があってしかるべきだと思います。ましてや、作曲家によってはテンポを指定していない曲もあります。そんなに目くじら立てるほどのことではないのでは?」


『確かに交響曲などでは、指揮者によってテンポのバラつきの目立つ曲もありますね。もちろんピアノ曲もです。でも、今は●●(作曲家)の○○(曲名)の話から始まっているので、テンポ指定のある曲に絞って話をすべきと思います。

 確かに奇抜な演奏で異端児と呼ばれたピアニストや、挑戦的な演奏が売りだった輩もいます。が、そういうのは一時は珍しさや面白さからもてはやされても、結局はスタンダードにならずに消えています。私から見れば、一種のイロモノだったなぁという印象です』


 言葉がエスカレートして、ていねいながらも相手をおちょくるような物言い。


 サキの闘争心はますます燃え上がっていった。

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