case4. 代理戦争(5)

 次の日、仕事から帰ると、サキは逸る気持ちを抑え切れずにパソコンを開いた。昨日ブックマークしておいた、あのブログ。


 はたして、もう返事が書いてあった。


「通りすがりさん、コメントありがとうございます。

 あらためて、はじめまして。いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 ご質問の件ですが、私は自分ではピアノを弾きません。子供のころ少し習ったことはありますが、バイエルを終わったくらいでさっさとやめました。

 ただ、私の叔母が、アマチュアですが演奏活動をしています。それで、ピアノ曲を聴く機会が多く、耳を鍛えられました(笑)。

 またご興味がありましたら、読みにきてください。よろしくお願いします」


 サキは、がっかりした。まったくの素人じゃないか。毛くらいは生えてるかもしれないが、自分で弾かないとは。

 もちろん、プロの評論家でも弾かない人は多いのだが、サキはてっきり、この男は自分も弾けるうえで健人を批判していると思い込んでいたのだ。そして、弾けないとわかって、ますます怒りが募った。


——あなたに、何がわかるのよ。


 こうなったら、素人同士、徹底的にやってやる。現に、私だって今までいろいろな人のいろいろな演奏を聴いているけど、こんなに感動したことがないというくらい、健人の演奏に魅せられているのだ。聴くことで幸せになれる。それだけでも彼の演奏には価値がある。サキはそれを、この男に認めさせたかった。


 いよいよ攻め込むぞ、とサキは腹を決めて、健人を批判する記事の下にコメントを書いた。


「クラオタさん、こんばんは。先日のコメントにお返事ありがとうございます。

 そして、実はこちらの桜庭健人さんのコンサート、私も行ってました!

 私は、とてもよかったと思うのですが、クラオタさんはご不満だったんですね。

 確かに、健人さんは作曲家が指定したテンポより遅く弾くことがままありますね。でも、それも彼の個性なのではないでしょうか。今まで思ってもみなかった曲の魅力を引き出してくれてるようで、毎回、私は新鮮さを感じています。テンポが遅い方が好きだと思う曲さえあります。

 曲の新たな魅力を教えてくれるピアニストということで、私はけっこう好きなのですが」


 我ながら、冷静に言いたいことをまとめられたと、サキは満足した。完全に同意してくれなくてもいい。ただ、こういうファンがいることを認めてくれさえすれば。そして、桜庭健人を完全否定しないでほしい。


 冷静なコメントを書いたことで、サキの気持ちも少し鎮まった。ねじ伏せたいのではない、ただ彼に多様な意見や感性を認めてほしいだけ。そう思って、サキは眠りについた。



 次の日の朝。男が夜中にブログを更新したり、コメントに返信してるらしいことを知ったサキは、目覚めるとすぐにパソコンを開いた。


 やはり、返事がついていた。


「こんばんは。コメントありがとうございます。

 桜庭健人は、以前はインテンポで弾いていたと思います。それはつまり、その方がいいと思っていたからであり、いま遅く弾いているのは、速く弾けなくなったからです。自分がいいと思う弾き方ができず、不本意な演奏をお金を取って聴かせるのは、プロとしていかがなものかと私は思っています。

 楽譜は曲の設計図です。演奏家は、それを忠実に再現するべきです。情感の込め方などに個性を出してもいいとは思いますが、設計図の基本を変えてしまったら、建物は壊れます。それに、演奏家は、作曲家が本当に表現したかったものを私たちになるべく正確に伝える使命があると思うのです。

 そういう意味でも、桜庭健人はプロの演奏家とは呼べないと私は思いますが、いかがでしょうか」


 冷静な物言いだ。理論的でもある。そして、彼の言うことは、間違ってないのかもしれない。


 しかし。だったら、彼の演奏に感動してる私たちは何なのか。


 やはり、そこを否定してほしくはない。たくさんのファンが存在しているのだ。

 どうしたらそこを認めさせられるか、サキはまた考えた。


 そもそも、設計図をアレンジしたらいけないのか。誰がそんなこと決めたのか。そうだ、建物が壊れないくらいのアレンジだってあるだろう。このブログ主が、アレンジされたものが嫌いでもいい。でも逆に、「そういうのが好きな人」もいる。これだけ多くのファンがいて、チケットが取れないほどの人気なのだ。それが、何よりの根拠だ。

 桜庭健人の演奏は、好まれている。必要とされている。このを認めてほしい。


 夜になったら、そう書いてやろう。


 すぐにでも書きたいという気持ちを抑えて、サキは出勤した。

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