case4. 代理戦争(3)

 かつての彼の巧みな演奏技術は、完全に失われている。それなのに、恥ずかしげもなく難曲に挑む無謀さには呆れるばかりだ。

 まず、テンポが生ぬるい。素人は、その心地よくイージーな雰囲気に騙されて、うっとりと聴き惚れるようだが、○○(曲名)が持つ微妙な緊張感は、あののんきなテンポでは表現できない。

 そして、テンポが遅いせいでミスタッチもよけいに際立ち、聞くに堪えなかった。天国の●●(作曲家)も、安らかな眠りを破られたのではないか。もし、席が通路側だったら、間違いなく途中で席を立っていただろう。吐き気がするほど不快な気分にさせられたコンサートだった。入場料を返してほしいくらいだ。お金を取って聴かせるプロの演奏とは到底言えないのだから。

 病気で引退したはずだったのに、過去の遺物を誰がわざわざ引っ張り出してきたのか。金儲けに走るあまり余計なことをしたそいつも、クラシック音楽の権威をけがす共犯者だ。


 サキは愕然とした。

 健人の演奏がけなされたこともさることながら、ここまで激しく感情的に攻撃する必要があるだろうか。気に入らなかったら、どういうところがよくなかったか、一般的に正統とされる演奏とどこが違うのか、それを冷静に分析するか、あるいは個人の感想としても、自分の好みとはどう違うのかなどもう少し紳士的に書けないものか。


 何らかの敵意があるのか、単なるストレスの発散なのか、いずれにしてもこのような乱暴な物言いは、そうそうないと思われた。言葉使いがていねいなことで、なおさら辛辣さが際立つようだった。


 数十のコメントがついているところを見ると、なかなか人気のブログのようだった。そして、件の記事へのコメントを見て、サキはさらにモヤモヤしたものを感じた。中には、彼の物言いをたしなめるような意見もなくはなかったが、たいていはただ「それでも私は健人さんの演奏が好きですよ」程度の控えめなコメントなのだ。健人のファンなら、なぜもっと怒らないのか。記事本文もコメント欄も、何もかもサキは納得がいかなかった。


 数日してもモヤモヤは晴れず、気になってしかたがない。サキはまた、そのブログを開いた。すると、新たなコメントがついていたのだ。かなり若い女性のようだった。


「健人さんの演奏を好きで聴いていたのですが、こちらのブログを読んで、本当の○○(曲名)を知りたくなりました。誰か、おすすめの演奏はありますか?」


って、何よ!」と、サキはまた憤慨した。


 返信にはごていねいに、動画サイトのURLが貼ってあった。

「たとえば、これはいかがでしょう。桜庭バージョンとのテンポの違いは明白です。そして、シャープな指さばきから来る安心感を味わってください。どこで間違えるか、ハラハラしないで済みますよ」


 わざわざ聴いてみるまでもなかった。それがどんな演奏か、サキにはだいたい想像がついた。それはそれでいいだろう。だが、演奏にもないだろう。


「寝る前に見るんじゃなかった」

 ムカムカした気分で、サキはなかなか寝付けなかった。


 それから一週間ほどした週末、サキはいつものように健人のCDを聴きながら、彼を哀れに思う自分に気づいた。本当は、再び表舞台に立つことなんて、本人は考えていなかったのかもしれない。サキにとっては今の彼の演奏に出会えたことは、この上ない僥倖だった。だけど、彼の人生にとって、「復活」することは必要だったのだろうか。


 復活と言っても、評論家たちに相手にされるわけでもなく、せいぜいがワイドショーでタレント扱いされるだけ。おまけに、どこの素人か知らないけど、あんなヤツに生意気なこと言われるだなんて。今の彼は、本当に幸せなのだろうか。

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