case3. 人身御供(9)
たばこの箱をしまいながら、エリさんは言った。
「ごめんなさい、煙たかったでしょう。私、今まで三回も禁煙に失敗してて」と照れ笑いをする。「そうそう、今回また吸い始めちゃったのは、この事件のせいだったんですよ。言い訳になりますけど、やっぱりけっこうショックで。それに、田中社長のことを考えると、出会ったころはいっしょに吸ってたなって、思い出しちゃったりしてね」。そして、バッグのファスナーを閉めると、何か数えるようにしてから言った。
「あれから五年も経つかぁ。今日を区切りにして、また禁煙しようかな」。
「やめることにデメリットはないんじゃないですか。最初は仕事の能率が落ちるとかあるかもしれないけど、健康にいいことは確かですからね」
「えぇ、重々、承知です」。そう言って、エリさんは笑った。私は、最後に気になっていることを訊いた。
「ケイコさん、スーパーにお勤めで、元気なんですか」
「えぇ、収入的には大変みたいだけど。なんたって、あのころはけっこう高給取りだったから」
「お仕事も、忙しかったんですもんね」
「そうですね」とエリさんは、そこに過去の映像が見えるかのように宙をあおいで言った。「私も最初、田中社長が大好きで、でも気づいたら自然と離れちゃってて、むしろ関係を戻そうなんてしなくてよかったんだけど、ケイコの方は最後の最後にかわいそうだったな。結局は彼女、私以上に社長に心酔してたってことなんですよね。もしかすると、最初に引き抜かれた時から、何か魔力みたいなものに支配されていたのかも。あんなことになった直後も、社長に何かあったんじゃないかとか本気で心配してたし、自分がもっと力になれることがあったんじゃないかとか悩んでたし」
「そうだったんですか。確かに、最後の同僚の方が辞めるって時にも、自分ががんばるって言ってたんですもんね」
「えぇ。で、ほとぼりが冷めてからは、今度はそこの部分で自己嫌悪にもなってたんです。誰かが社長の『生け贄』になってるうちは見て見ぬふりで、自分は安全なところでヒーローぶってたって。逆にもっと早く火中に飛び込むべきだったのに、本当はそんな勇気はなかったんだって」
「生け贄、ですか」。その言葉を私は心の中でも何度か反芻しながら、仮説を整理した。「田中社長は、自分が満たされた状態でいるために、誰かそういう生け贄というか餌食になる存在が必要だったってことなんですかね」
「たぶん、そういうことじゃないかな。さっきも言ったけど、誰か一人だけでいい。いや、一人じゃないとダメって言った方がいいのかな。誰にでもやってれば、周りから見て単なるヤバい人になっちゃいますから」
「なるほど。やっぱり、私には理解不能です」と眉をしかめた私に、エリさんは同意するように小さく頷いてから言った。
「でも、もうすっかり過去のことになって、よかったです。ケイコも今は心身ともに元気だし。なんだかんだ言って、彼女も強いですから」
***
長い話だった。
社員を餌食にした挙げ句、行方不明になった社長。残されて尻拭いをした社員たち。そして、わけもわからず、生け贄となって辞めていった人たち。渦中にいる時は、全体が見えてる人はいなかったのだろう。ひどい、そして、気の毒な話。たった一人の人間の心の闇が六人の人生を、短期間とは言え、次々に弄んだことになるのか。
私は細部のニュアンスが損なわれないように、かつ簡潔に事実が伝わるように、内容を箇条書きにまとめた。そして、いつものように簡単な考察をコメントとして付け加えて、先生の部屋へ説明しにいった。
先生は興味深そうに私の話を聞き、レポート用紙の束を机の上に置くように言った。言われたとおりにして部屋を出ようとすると、先生は私を呼び止めて訊いた。
「この話、一言で言うと、どういうことになるだろう」
一応、考えようともしたのだけど、やはりあの言葉しかないと思い直した。
「『
「人身御供。ふむ。なるほど」
先生はそれだけ呟くと、窓の外へ視線を移しながら「ご苦労さん」と言った。
その言葉は、エリさんとの話の最後に思い浮かんだものだった。田中社長のことは、結局、私には理解不能だ。そういうような人がいることは聞いたことがあるし、実際、いるのだろう。でも解き明かせないものに焦点を当てるより、解き明かせないものに翻弄された人たちの方に、私の思いは向いていたのだ。
その後、半年ほど経って、私はゴミ箱にその紙束が捨てられてるのを見つけた。ここまで来ると、この先にどういう形で採用されようがされまいが、追加の料金をエリさんに払うという話にはならない。
私はそれを拾い上げて家に持ち帰ると、細部を脚色して一篇のフィクションにまとめ上げた。
タイトルはもちろん、「人身御供」。そして、保存のボタンを押した。
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