case3. 人身御供(5)
その日は雨降りだった。ケイコは近場の喫茶店へ行くつもりだったが、高橋は少し遠いカジュアルレストランに行きたがった。雨なのに面倒だなと思いながら、ケイコはあとについて行った。
「ごめんね、忙しいのに」
おしぼりで手を拭きながら、高橋がいつにもまして弱々しい口調で言った。
「大丈夫だよ。どっちみち、ごはんは食べるんだから」
「そうだね、ありがとう」と高橋は少し笑ってみせたが、元気がない。
「で、どうしたの? いつもお弁当でしょ?」
「うん、いいの、あれは夜帰ってから食べるよ。それより、どうしてもケイコに相談したいことがあって」
高橋の話はこうだった。
つい最近、辞めた山下が担当していた社長経由のクライアントの仕事が再度入ってきた。営業担当は同じく森山で、制作担当は高橋になったという。納期が数カ月先というかなり余裕のある仕事で、高橋は快く引き受けた。
ところが、すぐに社長から急かされ、慌ててデザイン案を出すと、何度も何度も直された。スケジュールに余裕がある分、完璧なものを出したいのかと思い、黙って要望に従っていた。しかし、いくら余裕があるとは言っても、直す回数が不自然に多くなっていき、不審に思った高橋は「先方の意向ですか?」と訊いたという。
すると社長はいきなり烈火のごとく怒り、「黙って言うとおりにしなさい」と怒鳴ったらしい。その後も、言われたとおりに直しているのに、いっこうにOKが出ない。仕上がりが悪いのではなく、出すたびにがらりとコンセプトを変えられ、結局、最初からやり直すという繰り返しで、いくらやってもキリがなかった。高橋はしだいに神経的にまいっていった。ある時、「これ以上、できません」と言ってみた。すると、社長は「あなたの能力を信じてるから、お願いしてるの。大丈夫、できるわよ」とやさしく言ったという。その態度に少し安心して、高橋はまた言われたとおりにした。
そんな矢先、社長室に呼ばれた高橋は、社長の明らかに不機嫌な態度にイヤな予感がした。開口一番「どうして来なかったの!」ときつく言われ、最初、何のことかわからずキョトンとしていると、社長はたたみかけるように怒鳴ったという。「今日の三時に、○○社に来るようにって言ったでしょ!」
高橋は涙をためながらケイコをまっすぐ見て、言った。「私、そんな連絡、受けた覚えないのよ」。
「え? 森山くんは? 行ったの?」
「出先から直接行ったみたい。あとで森山くんに訊いたら、私も別途来ることになってるからって、○○社の玄関でしばらく社長と二人で私を待ってたらしいの」。そう言って、高橋は力なく笑った。
「大丈夫? 顔色悪いよ。高橋さん、疲れてるんだよ。少し休みなよ。有給溜まってるでしょ?」
「違う。そういうことじゃなくて、私、本当に連絡もらってないのよ」
ケイコは、半信半疑だった。連絡の行き違いはままあることで、目の前の高橋は疲れ果ててやつれて見える。おそらく、忘れたのではなく、受けた連絡をぼぅっとしてて聞いてなかったのだろう。
「謝ったんでしょう? 納期もまだ先みたいだし、少し休んで、またがんばればいいじゃない。元気出そうよ」
高橋はうつろな目を向けて言った。「謝ってないよ。だって、聞いてないもの。誰も信じてくれないんだけど、絶対に言われてない」。
珍しく強弁する高橋にケイコは内心たじろぎながらも、やつれた様子の相手を責める気持ちにはなれなかった。
「あのね、森山くんも言ってたけど、あの仕事、社長がかなり力入れてるでしょ? いろいろやりにくいだろうけど、抜擢されたんだから、名誉なことじゃん。納期が近くなったら社長もハラくくって、案も決めてくれるんじゃない? きっと、今はまだ時間があるから、後悔のないようにいろんな案を検討してるんだよ」
「私、もう限界なの。誰もわかってくれないし、仕事もこれ以上ついていけない。もう、辞めようかなと思って」
ケイコはため息をついた。そして、またか、と、目の前の同僚を同情半分、失望半分な気持ちで見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます