case3. 人身御供(3)

 田中の会社を仮にイロハ事務所とするが、田中が独立して三人からスタートした会社は、その後、企画営業の男子社員一名、若い女子社員二名、そして経理のパートの女性一名を加えた七人体制になっていた。


「最近、仕事も減ってきてるし、ちょうどいいんじゃない? 川野さんもまだ若いし」

 最後にケイコは、さして気にするふうもなく言った。店を出ながら、ケイコとエリは仕事の件を軽く確認し合って、「じゃあ、よろしく」と別れた。


 それから幾月か経ち、イロハ事務所でも不景気の影響がますます顕著に感じられるようになり、気づけばケイコも多忙でバタバタするということが少なくなっていた。時々、手持ち無沙汰になると、打ち合わせコーナーでコーヒーを飲みながら休憩する余裕もあった。

 そんな時だった。社長室から、田中の声が聞こえてきたのである。

「……だから! 言い訳しなくていいのよ。ただ、ごめんなさいと謝ればいいの」

 誰かミスをしたのか、怒られているようだった。最初はきついトーンだったのが、だんだん優しく変わった。そのあとは声が小さくなり、聞こえなくなった。

「山下さんかな」

 若い女子社員を思い浮かべ、未熟ゆえに厳しく指導されることもあるのだろうと気に留めなかった。


 社長室から出て来たのは予想通り山下だったが、見ると、怒りをこらえるような表情で泣いていた。が、すぐにトイレにでも行ったのか、部屋からいなくなったので、ケイコの関心もそれきりになった。


 唯一の男子社員である森山は営業や打ち合わせが多く、あまり社内にいなかった。経理の内野はパートなので勤務時間も短く、高橋は仕事中は発火しそうなほど集中していて声をかけづらい雰囲気があり、ケイコもケイコでこれまでバタバタと忙しかったせいか、イロハ事務所は仕事以外でお互いのことに関心を持つような和気あいあいとした空気がない会社だった。帰りに連れだって飲みに行くこともほとんどなく、これまでも飲み会と言えば忘年会と新入社員の歓迎会だけだった。

 ドライと言うか、大人と言うか、仕事だけきちんとしていればそれでいい、煩わしい人間関係に気づかうことなく仕事に集中できる社風が、ケイコにはむしろ居心地がよかった。


 だが、その後再び、社長室から漏れてきた田中の苛立った声を聞いてしまった時、さすがにケイコも何事だろうと引っかかった。田中が声を荒げたり怒ったりするところを、ケイコ自身は直に見たことが一度もなかったからだ。

 それから数週間後に、突然、山下が辞めていった。


 直後のある日、ケイコはエリを飲みに誘った。

 上品な雰囲気の居酒屋に腰を落ち着け、乾杯をすると、さっそくエリが口を開いた。

「夜に会うのって、いつぶりかな? で、何? 話って?」

「半年くらい前に、川野さんが辞めたでしょう? で、この前、突然、山下さんも辞めたのよ。送別会もなかったよ」

「え!? そうなの!? なんでまた、そんな突然?」

「それでね、パートの内野さんも来月で辞めるらしいんだ」

「どしたの、それ。なんかヘンだね」

 注文したサラダが運ばれてきた。エリは二人分を取り分けながら、ケイコに話の先を促した。

「なんか最近、仕事も減ってきてるし、密かにリストラが進行してたりして?」

「そっか。それは、あり得るかもね。このごろ多いよ、そういう話。それが理由なら、むしろもう驚かないわ」

「そういうもん? たださぁ、ちょっと気になったんだけど、山下さん、けっこう社長に怒られてたみたいなんだよね。うちの社長って、あんなに怒るイメージなかったから、どうしたのかなって感じはしてたんだ。そこからのリストラ?」

「それって、つまりクビ!?」

「まさか! そんなことする人じゃないでしょ」

「リストラも似たようなもんじゃない?」

「まあ、確かに」。ケイコはサラダの皿を脇によけながら言った。「だとしたら、社長、どんな顔して言ったんだろう」


 焼き鳥が運ばれてきた。エリは串のまま豪快にかぶりつきながら訊いた。

「ケイコさぁ、山下さんとそのへんのこと、一度も話したことなかったの?」

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