case2. たった一度の嘘(5)

 コップの水もすっかり氷が溶けて、どこかだらしなく見える。英子さんが黙っているので、私はナプキンでゆっくりと自分のコップの水滴とテーブルを拭きながら言った。

「それで、さっきおっしゃってた『もっとひどいこと』って何ですか?」

 あぁ、と思い出したように英子さんは笑って、自分の水を飲んだ。

「私ったらね、和子が私みたいに、このことを思い出さなければいいなぁって、それを願ってるんです。ずっと忘れててくれればいいなって。思い出して、彼女がもう一度傷ついたり、私を憎んだりするのもイヤだけど、もっと言うと、私が恥ずかしいからなんです。あの時あんなふうに言った私のこと、できれば誰にも知られたくない。彼女さえ思い出さなければ、そのことを知ってるのは私だけですから——ねっ、私って、利己的。ひどいでしょ?」

 私は曖昧に笑って言った。「私が知ってしまいましたよ?」

「あぁ、そうですよね、あはは」と彼女は力なく笑ってから言った。「いま大人になって、つくづく不思議に思うのは、ますます理由がわからないことなんです。どうして、あんなこと…。二度とこんなふうに悩みたくないから、一応、”再発防止策”を考えようとしてみるんですけど、ダメなんです、理由がないから」


 ほんの一瞬魔が差して、ついてしまった嘘。理由もないし、深く考えてなかったというのも本当だろう。おそらく、その場の雰囲気で何かそれらしいことを言わなくてはならないと思ってしまった、ましてや和子さんを傷つける意図などまったくなかった。でも、それが一人の人間をこんなに苦しめるほど大きな傷になっている。いや、たぶん二人の人間を、だ。

 彼女の願っているとおり、和子さんが忘れているなら、そのまま思い出してほしくないと私も思う。でも、和子さんはもしかしたら、ずっと覚えていたのではないかとも思った。


「言いづらいことだったでしょうに、貴重なお話、ありがとうございました」

 私はお礼を言って、伝票を自分の方に引き寄せた。英子さんは、「いえいえ、聞いてもらって、私の方こそスッキリしました」と言ってから、急に真顔になって私を見た。

「そういえば、今の今まで一度も、私、和子に『ごめんなさい』って思ったことなかったな。自分のことばっかり考えてました」

 英子さんは眉をしかめて、「あぁ、ほんと、私って」と拳を額に当ててうつむいた。彼女にとって今日は、この出来事を総ざらいする日になったようだ。私は、彼女が顔を上げるまで黙っていた。


 しばらくすると、英子さんは意味ありげに私を見上げて言った。

「あのぅ、私のこと、『大嘘つき』って笑って言ってもらえませんか?」

 唐突なお願いに面食らったが、話を引き取ったからには、もとの持ち主の気の済むようにしてあげたい。


「英子さんったら、う・そ・つ・き〜!」

 おどけて言うと、英子さんは弾けるように笑った。

「みんな、多かれ少なかれ、似たようなことありますよ。忘れてるだけで、どこかでひどいことやらかしてるかも。私こそ、ずっと忘れたままでいようっと」と、すっかり打ち解けた雰囲気になって私も笑うと、英子さんはにっこりして肩をすくめた。


***


 うちの作家先生は、このネタを採用しなかった。

 確かに、嘘というのは、文学ではよく取り上げられるテーマかもしれない。和子さんの側にスポットを当てるのも面白いと思ったが、今回、先生の琴線には触れなかったようだ。


 私が「嘘つき」と言ってあげたことで、英子さんはホッとしたのかもしれない。それだけでも意味はあった。あとは、この話をきちんと仕舞うだけだ。


タイトルは——。

「理由のない嘘」というのも考えたが、第一声が「嘘をついたことがないんです」だったことが、この一度の嘘の意味と重みを物語ってるように思えた。


「たった一度の嘘」。そうタイトルを付けて、私は保存のボタンを押した。

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